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意味について

 今、意味について語ることは空しい。

 ほとんどの人は文章を読んで「意味」に到達できないからだ。

 冗談ではない。

 事実だ。

 読書好き、本好き、という人ほど怪しい。

 人に物を教えようという人に関しては絶望的だ。

 私はウイキペディアで出鱈目を書いている人の何割かが「教えたがり」で「知ったかぶり」の教師だろうと疑っている。

 絶望的な漱石ファンの一人、二人に犠牲になって貰おう。

 これでは到底解っていないと思う。実際「なぜ先生が自死したのか」ということについて書いていないところから解る。自信があるなら書けるはずだ。こういう態度を「知ったかぶり」という。まだ子供だろうが、子供なら何でも許される訳ではない。

 この程度の人がいわゆる「漱石ファン」であり、この程度の人に向けてこれまでの夏目漱石論は書かれてきたわけだ。

 夏目漱石作品は最早読まれていない、と言って良いのではなかろうか。買われても読まれていない。

 聞かれても読まれてはいない。

 これで解ったと言われても……。

 で、肝腎な問題、あなたはどうですか?

 あなた自身はどうですか? あなたは夏目漱石作品を一つでもちゃんと読んだことがありますか?

 その作品の読みに関して、私の質問に答える自信がありますか?

 例えば『吾輩は猫である』の「名前はまだ無い。」の「まだ」ってどの時点のことなのか解りますか?

 吾輩は御馳走も食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康で跛っこにもならずにその日その日を暮している。鼠は決して取らない。おさんは未いまだに嫌きらいである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家で無名の猫で終るつもりだ。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 当初はこの第一章の結びの「まだ」と連結する筈でしたが、後に書き加えられて、曖昧になります。冒頭で吾輩は書生が猫を煮て食うことを知っていますが、第一章にはその伝聞がないので、どこかその伝聞のポイントが必要になります。

「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々棄てなさい。私わたしが貰って行って煮て食おうか知らん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫は旨うござります」
「随分豪傑ね」
 下等な書生のうちには猫を食うような野蛮人がある由はかねて伝聞したが、吾輩が平生眷顧を辱うする多々良君その人もまたこの同類ならんとは今が今まで夢にも知らなかった。(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 これが第五章なので、「かねて」で「まだ」は曖昧な過去になり、なおかつ「今が今まで夢にも知らなかった」と語られることから、少なくともこれ以降は現前の事件であり、回顧ではありえないということになります。

 この時点より前、であるとはいえます。

 ではここ、という答えはまだありません。

 ただ「まだ」ってどの時点のことなのか、考える人には「今が今まで夢にも知らなかった」に気が付くことには意味があります。考えない人には何の意味もありません。

 それだけのことです。





 

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