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芥川龍之介の『お富の貞操』をどう読むか④ 『雛』をどう読むか② 気が付いていた?

 昨日は『お富の貞操』という題名は『お富の開脚』に変えた方がいいという話を書いた。

 いや、そこまでは書いていなかった。

 そういう視点に立てば『開化の殺人』と『お富の貞操』は対となる作品だ。では他に開脚ものを見逃していないかと気になるところ。

 もう一度『舞踏会』を読み直すと、明子は仏蘭西人海軍将校に開脚したかどうかは曖昧乍ら、その後開化に踊らされることなく堅実な人生を歩んだように見える。

 一方『開化の良人』の楢山夫人や三浦の細君は開脚しているようである。

 つまり開化ものは大体開脚ものであると言える。

 言いすぎか。


[余談]

用済みになったもの

 

 一言で言ってしまえば『雛』は雛人形が用済みにされる話である。そう気が付いてみると『舞踏会』の明子も、おそらくその日限りで用済みになり、薔薇色のドレスも売り払われてしまっただろう。無尽燈や「徳川」が用済みになるように、今では芥川も用済みなのだろうか?

 私はそうは思わない。

 まだ芥川作品は殆ど読まれてもいない。

 例えば二十三号は何故河童から逃げないで襲い掛かるのか、ちょっと異常じゃないかというようなちょっとしたことに引っかかりながら読まないと、芥川作品というのはつまらない。

 要するに雛人形が用済みになるのは「嫁入り道具」という価値観が断ち切られたところに売られていくからだ。そうするとただの見かけしか価値のない人形になってしまう。ちょっとしたことに引っかかりながら読むということをしなければ大抵の文学作品が用済みにされてしまう。

 ラノベもラノベ的読み方も文化だとは思う。しかしラノベでないものはその文化の中で読むべきであろう。

 古雛の首を玩具にしてゐる紅毛の童女は、きっとバービー人形にしたように、雛人形を開脚させようと、裳裾をめくり、足を探したに違いない。

 つまり『雛』は雛人形を開脚させようとした紅毛の童女ががっかりする話なのである。

 気が付いていた?


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