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芥川龍之介の『お富の貞操』をどう読むか③ 新公の見たもの

 これまで一応お富の猫の為に貞操を捨てようとする心理について書かれてきた有象無象の「あなたの感想」とは違うものを、この記事にまとめた。しかし一方で新公のふるまいに関してはこれまでもあまり議論もされていないようで、実は大きな見落としの可能性があることに今気がついた。

 吉田精一はお富の「突発的な微妙な心理」を見出すが、その言い回しからはお富の覚悟が見逃されている。

「いけ好かない!」
 お富は忌々しさうに呟やいた。が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子だつた。雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――それぎり茶の間はしんとしてしまつた。 

(芥川龍之介『お富の貞操』)

 この時、お富はどちら向きに寝ていたのだろうか。

 新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽おほつた儘、ぢつと仰向けに横たはつてゐた。新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が漲ぎつてゐた。それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。

(芥川龍之介『お富の貞操』)

 この時新公は、何を見たのだろうか。

 同じ開化ものの『開化の殺人』では、ドクトル・北畠義一郎が甘露寺明子にあそこを見せつけられる。


 頭上の紫藤は春日の光りを揺りて垂れ、藤下の明子は凝然として彫塑の如く佇めり。予はこの画の如き数分の彼女を、今に至つて忘るる能はず。

(芥川龍之介『開化の殺人』)

 ここで「藤下の明子は凝然として彫塑の如く佇めり。」と書かれているが、書かれていないこととして「まんじりともせず甘露寺明子の股間を凝視し続ける北畠義一郎」がいる。そういう理窟になる。一マスに一文字しか書けない小説には、書かれていることと書かれないことがある。

 さて、お富の帯は解かれていた。さあいざことを始めようとした時、帯を解いて寝たら、お富の股は閉じていただろうか。次第に明るくなっていった茶の間では、それはもう敢て閉じる意味もないもので、だからこそ新公は「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな」というのではなかろうか。

 ここで理屈を書いてしまうと、こうなる。

 茶の間にあったもの、新公の見たものが聞こえた通り、予想通りなら逃げ帰る必要もないし、一本も取られはしない。一本取られるということは相手の方が上手だったということだ。この場合、お富は新公の予測を超えて来なくてはならない。ただ恥ずかしそうに顔を隠して寝ていたら、予想のままである。茶の間には新公を驚かせ、予測を超えてくるものが必ずなくてはならない。

 新公はそれを見たのだ。そうでなくてはお話として成立しない。

 このお富の覚悟が、新公のどさくさ紛れの性欲を挫き、強姦未遂をセクハラに引き戻したのだ。

 二十数年後、故意か偶然か、お富の顔を見守つてゐた新公の頭の中には、お富の顔ではないもの、あの時見たものが懐かしく浮かんでいた筈である。お富の記憶しているものと新公の記憶しているものは違う。話者はお富に寄り添う。

 小説には書いてあることと書いていないことがある。


[余談]

 それにしても「お富もしたかった」式の読みはどうかと思う。そうならそういうそぶりが書かれているべきだ。何もないところについ自分の願望が出ているような「論文」(?)が見つかった。「自分なら」式の感想文で育った子供の変な癖が出ているのではなかろうか。国立国語研究所に置いてあったぞ。


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