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健三は何故健三なのか? あるいは三四郎は三なのか四なのか。

 ※今回も正式な文章読解ではないところで余談を書きます。

 夏目漱石の『道草』という小説が自伝的要素を鏤めた私小説風ミステリー小説であることに異論の余地はあるまい。いや、ミステリー小説とは誰も思っていないかもしれないが、一々仕掛けの多い小説であることだけは確かなのだ。

 しかしそうは云っても「健三は何故健三なのか?」と問われても、そもそもどういう種類の問いなのか解らない人が大半ではなかろうか。しかし案外これは解らないことであり、問うべき事なのだ。

 つまり何故「健四郎」や「五郎」ではないのかということだ。『坊っちゃん』の「おれ」はどうも次男のようだが、名は「何某」として徹底して伏せられる。『こころ』の先生や話者、話者の友人らと同じように伏せられる。狸と赤シャツもあだ名しか明らかではない。山嵐は堀田、うらなり君には古賀と名があるも、漢学の教師にはあだ名も名もなく、やはり野だには名がない。その点バランスを欠いているものの『坊っちゃん』において徹底しているのは「おれ」の名が伏せられることである。『こころ』おいては「静」の他は「お光」「関」という因縁を持った名が使いまわされる。そのことで本来恣意的である筈の名前と云うものが何らかの意味を持ってしまうことが強調されてしまうような印象がある。

 当たり前のことだが、漱石は名前の意味をその作品ごとにそれぞれ考えてつけている。今、当たり前のことだが、と書いたが、それは「なんとなくつけることもできるのに」という意味でもある。例えば『明暗』の津田由雄が何故津田なのかという問いには、最早答えはなかろう。装丁者でもあり、洋画の師匠でもあった津田青楓、津田亀治郎と関係があるのかないのか、二人の小林が出て來る意味も定かではない。小林が小林である必然性などあるわけはないからだ。

 しかし例えば『行人』の長野一郎、長野二郎にはある程度の必然性があるだろう。一郎は長男、家長父制度における世継ぎを意味し、二郎はそのスペアである。スペアであることをさらに露骨に示されたのが、『それから』の長井代助である。代助をDeepLはhelperと訳しさえする。対して兄の名は吾、その息子は太郎、代助の父親の名は長井得、その幼名は之進である。長井家は家督を継がせるものに「誠」の字を与えること、「誠」の字を与えられないものには家督を継ぐ資格がないことが名前によって解りやすく示されている。

「若い人がよく失敗るというが、全く誠実と熱心が足りないからだ。己も多年の経験で、この年になるまで遣って来たが、どうしてもこの二つがないと成功しないね」
「誠実と熱心があるために、却って遣り損うこともあるでしょう」
「いや、先ずないな」
 親爺の頭の上に、誠者天之道也と云う額が麗々と掛けてある。先代の旧藩主に書いて貰ったとか云って、親爺は尤も珍重している。代助はこの額が甚だ嫌いである。第一字が嫌だ。その上文句が気に喰わない。誠は天の道なりの後へ、人の道にあらずと附け加えたい様な心持がする。(夏目漱石『それから』)

 何か一文字を継がせる伝統、これは夏目家においても同じであった。夏目家の場合、父は夏目小兵衛克、兄の夏目矩が家督を継いだ。兄弟はもともと先妻ことの子として姉さわ、ふさがあり、大助(大一)、栄之助(直則)、小勝、直矩(和三郎)、久吉、と兄姉がいて、金之助は五男の末っ子である。ただし文学辞典では四男とされているものがある。

 夏目家の「直」は夏目四兵衛情、夏目四兵衛晴、夏目小兵衛克、夏目道、夏目小兵衛基、夏目小兵衛克と受け継がれてきたようだが、夏目家の先祖は兄・夏目直矩ともども意識の中ではもっと遥か昔、鎮守府将軍六孫経基(源 経基)の五男、源満快にまで連なる。

滿快の末で夏目左近將監國平といふのが、信州伊奈郡に住んで夏目の邑を領し、將軍賴家に仕へたとある。(『夏目漱石』赤木桁平 著新潮社 1917年)
夏目田てふ村有り、夏目左近將監國平、奥州の役、泰衡追討の賞として、信濃國夏目村の地頭職を給ふといへるは此地にや。(『日本伝説叢書 信濃の巻』藤沢衛彦 編日本伝説叢書刊行会 1917年)
 夏目彌郞信賴なる人永祿四年川中島の合戰にも父と共に從つて軍功を立てたが、勝賴天目山に沒落後は、武州岩槻に移つて隱れ棲むだ。(『夏目漱石』赤木桁平 著新潮社 1917年)
 彌郞の子權郞氏正は近習馬廻役を勤めて居る間、病の故に致仕して高力家を退去し、武州豐島郡牛籠(著者云ふ。牛籠は卽ち牛込なり)の郷に隱れて郷士と成つたとある。(『夏目漱石』赤木桁平 著新潮社 1917年)

 夏目四兵衛直情は權三郞氏正の子である。ここで唐突に「直」の字が現れ、三郎が四兵衛になる。一方で夏目左近の系譜では「信」の字が受け継がれ、幕末明治にかけて要職にあったようだ。

 で、さて、では何故健三は健三なのか?

 この問題を考えるためには偶然顕れたかのような「三」という数字が、別の人物にも与えられていることを確認する必要があるだろう。そう、それは『永日小品』の『声』の豊三郎である。

 その時窓の前の長屋の方で、豊々と云う声がした。その声が調子と云い、音色といい、優しい故郷の母に少しも違わない。豊三郎はたちまち窓の障子をがらりと開けた。すると昨日見た蒼ぶくれの婆さんが、落ちかかる秋の日を額に受けて、十二三になる鼻垂小僧を手招きしていた。がらりと云う音がすると同時に、婆さんは例のむくんだ眼を翻して下から豊三郎を見上げた。(夏目漱石『声』)

 この声は『硝子戸の中』『道草』との関係に於いて「母親の声を出すお婆さんのおぞましさ」だけではないところ、実母が案外お婆さんであるという驚き、実母に対する違和感のような自伝的要素も加味して味わうべきだろう。つまり豊三郎の「三」は健三の「三」と同じく、全く恣意的な数字ではなく、自伝的な語り手を選んだ時に選びたい数字だったのではないか。四でも五もなく、つまり四兵衛の四でもなく、五男の五でもないところ、つまり遠く彌三郞や權三郞に連なるアイデンティティとして求められた数字ではなかったか。

 それは『それから』に現れる「誠」の字を与えられなかった僻み(「直」の字が与えられなかった僻み)が、健三、豊三郎の名には滲み出たものではなかろうか。漱石が自分を投影する人物に使いたくない名前には、例えば「直四郎」があろう。それはさすがにみっともない。健三と云う名にはそうした意地が込められてはいないだろうか。


[余談]

 同君(小宮)の取調べた所に據ると、新宿二丁目の遊女屋伊豆橋(福田長兵衞)といふのがお母さんの本當の實家で、お母さん(知惠)は姊聟の高橋長左衞門を假の親として、夏目小兵衞直克の許へ、二十八歲の時に嫁づいて來られた。(『夏目漱石 続』森田草平 著甲鳥書林 1943年)

 これも切り取ると解らなくなる話なので、リンクを張っておきます。



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