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『彼岸過迄』を読む 4343 松本恒三は何故前後即因果の誤謬を持ち出したのか?

 多くの人が『彼岸過迄』といえば「須永の話」で、千代子と市蔵のかなわない恋、市蔵の出生の秘密が肝だ、と決めつけているようです。しかし「雨の降る日」も実話そのまま、日記のそのままの部分があるとはいえ、一つの短篇小説としては「しっとり」として上手く書かれていると思います。しかし「須永の話」は読み終わった後で「停留所」の見方が変わってくるという仕掛けを持っており、「親子二人の静かな暮らしぶり」がより床しく感じられるという意味ではより「個々の短篇が相合して一長篇を構成する」という仕組みに貢献していると言えるでしょう。

 一方よく読むと「雨の降る日」の結びに表れるテーゼ、「己は雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男が厭になった」は、確かに一応雨の降る日に田川敬太郎の面会を謝絶する根拠にはなっているようではありますが、この理屈はかなりぼんやりしたものに思えます。

「生意気云うな」
「あら本当よあなた。だって何を聞いても知ってるんですもの」
 二人がこんな話をしていると、ただいまこの方が御見えになりましたと云って、下女が一通の紹介状のようなものを持って来て松本に渡した。松本は「千代子待っておいで。今にまた面白い事を教えてやるから」と笑いながら立ち上った。
「厭よまたこないだみたいに、西洋煙草の名なんかたくさん覚えさせちゃ」
 松本は何にも答えずに客間の方へ出て行った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 今少し都合があって(何とか頑張って生きているのですが、本当にもう先が長くないような感じがして少々焦っているので)、『彼岸過迄』を読みながら芥川龍之介の『歯車』についても並行して書いているので、二重規範にならないように、つまりどうしても偏りが出ないように指摘せざるを得ないのですが、これは認知バイアスというより、前後即因果の誤謬として整理されている考え方そのものです。先後関係と因果関係の取り違えであり、認識の偏りではなく、誤謬なのです。

 なので認知バイアスだらけの『歯車』の主人公を「精神病患者」にしなくてはならないのであれば、この自称高等遊民は前後即因果の誤謬という理屈も分からない「馬鹿」ということになってしまいます。

 何故高等遊民の松本恒三はこのような前後即因果の誤謬を持ち出すのでしょうか?

 それはおそらく千代子の虚偽の原因の誤謬をかばう、責任を他に向ける方便なのでしょう。

 誤謬で誤謬をかばっているのであまり納得感はありませんけれども、そうでもしてやらないと、別の誰かを悪者に仕立てないと千代子がかわいそうということなのでしょう。

「さあ宵子さん、まんまよ。御待遠さま」
 千代子が粥を一匙ずつ掬って口へ入れてやるたびに、宵子は旨しい旨しいだの、ちょうだいちょうだいだのいろいろな芸を強いられた。しまいに自分一人で食べると云って、千代子の手から匙を受け取った時、彼女はまた丹念に匙の持ち方を教えた。宵子は固より極きわめて短かい単語よりほかに発音できなかった。そう持つのではないと叱られると、きっと御供のような平たい頭を傾かしげて、こう? こう? と聞き直した。それを千代子が面白がって、何遍もくり返さしているうちに、いつもの通りこう? と半分言いかけて、心持横にした大きな眼で千代子を見上げた時、突然右の手に持った匙を放り出して、千代子の膝の前に俯伏せになった。
「どうしたの」
 千代子は何の気もつかずに宵子を抱き起した。するとまるで眠った子を抱えたように、ただ手応えがぐたりとしただけなので、千代子は急に大きな声を出して、宵子さん宵子さんと呼んだ。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 飽くまで小説の中の話として、物を食っていて急にぐったりしたわけですから、一番に考えられるのは宵子が喉に粥を詰まらせて窒息状態にあったのではないかということです。すぐに吐かせれば助かったかもしれません。勿論千代子が殺したわけではありませんが千代子は、こう言わざるを得ないわけです。

「叔母さんとんだ事をしました……」
「何も千代ちゃんがした訳じゃないんだから……」
「でもあたしが御飯を喫べさしていたんですから……叔父さんにも叔母さんにもまことにすみません」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 誰か一人悪いことにしなくてはならないのであれば、むしろ思いっきり理屈の合わないとばっちりのようなやり方で部外者に責任を押し付けるのが穏便だということなのでしょう。しかしやはりとばっちりはとばっちりですし、これで千代子の罪悪感が消えるものでもないでしょう。千代子の方こそ子供に匙で粥を食わせること自体が恐ろしくなってしまうかもしれません。

 しかも実際この前後即因果の誤謬は松本恒三に「雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男」をトラウマとして押し付けてしまいます。これは自分の嘘に騙されています。これも誤謬です。『歯車』の主人公を「精神病患者」にしなくてはならないのであれば、この自称高等遊民は「馬鹿」にしなくてはならないというのは飽くまでロジックで、実際には高等遊民も「馬鹿」になってしまうほど、宵子の死に対する松本恒三の悲しみは深かったということなのでしょう。

 無論漱石自身に「その手の病的なところ」があったこと自体は否定しません。また同じ意味で「雨の降る日に紹介状を持って会いに来る男」がその家に不幸をもたらす可能性も否定しません。

 同じ意味で?

 同じ意味です。

[余談]

 昨日深夜、ドラクエウォークで国士無双を振り込んだ。キュウピンで。呪われているんか。おれ。














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