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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する192 夏目漱石『明暗』をどう読むか42 ダメな時もある

 昨日は「馬鹿野郎」のところでかなり悩んだ。悩んでいたら何十年ぶりかで胃が痛くなり、何十年ぶりかで胃薬を買って飲んだ。昨日までは本当に気が付いていなかった。しかし一旦気が付いて前後を読み直してみるとやはり津田は「ただの友達ではあるまい」という小林の言葉に過剰反応しており、その苛立ちには軽々しく男と男を結びつけようとする小林の気ままさに対する批判がある。胃が痛い。薬を飲んでもなお痛い。ツボも色々試したが痛い。これではとても続きは書けそうもない。

君旅費はもうできたのか

「しかし君は僕などと違って聡明そうめいだからいい。他はみんな君がお延さんに降参し切ってるように思ってるぜ」
「他とは誰の事だい」
「先生でも奥さんでもさ」
 藤井の叔父や叔母から、そう思われている事は、津田にもほぼ見当がついていた。
「降参し切っているんだから、そう見えたって仕方がないさ」
「そうか。――しかし僕のような正直者には、とても君の真似はできない。君はやッぱりえらい男だ」
「君が正直で僕が偽物なのか。その偽物がまた偉くって正直者は馬鹿なのか。君はいつまたそんな哲学を発明したのかい」
「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」
 津田の頭に妙な暗示が閃かされた。
「君旅費はもうできたのか」

(夏目漱石『明暗』)

 津田は再び話題を転じる。「時にいつ立つんだね」に続いて二回目だ。つまり「一つ朝鮮へ行く前に、面白い秘密でも提供して、岡本さんから少し取って行くかな」の「秘密」と「哲学はよほど前から発明しているんだがね。今度改めてそれを発表しようと云うんだ、朝鮮へ行くについて」の「哲学」が津田の遠ざけたいものだということになる。
 ここで津田の頭に閃いた暗示とは、小林が朝鮮に行く前に津田の秘密を誰かにばらすのではないかというものだろう。このじりじりと詰めて來る感じが賺しでなければ、やはり小林はひと悶着を起こすだろう。

 ここで小林は、

・津田がお延に降参していないこと
・自分は正直者だが津田は偽物であること

 ……を指摘している。ひと悶着は津田のお延に対する裏切りを暴露し、津田が偽物であることを暴くものになるだろう。なるだろうって、結局ならなかったけど。

君はどうだい

「旅費はどうでもできるつもりだがね」
「社の方で出してくれる事にきまったのかい」
「いいや。もう先生から借りる事にしてしまった」
「そうか。そりゃ好い具合だ」
「ちっとも好い具合じゃない。僕はこれでも先生の世話になるのが気の毒でたまらないんだ」
 こういう彼は、平気で自分の妹のお金さんを藤井に片づけて貰う男であった。
「いくら僕が恥知らずでも、この上金の事で、先生に迷惑をかけてはすまないからね」
 津田は何とも答えなかった。小林は無邪気に相談でもするような調子で云った。
「君どこかに強奪る所はないかね」
「まあないね」と云い放った津田は、わざとそっぽを向いた。
「ないかね。どこかにありそうなもんだがな」
「ないよ。近頃は不景気だから」
「君はどうだい。世間はとにかく、君だけはいつも景気が好さそうじゃないか」
「馬鹿云うな」

(夏目漱石『明暗』)

 君はどうだい、は実質強奪っているようなものだ。私なら胃が痛くなりそうな言われようだ。いや、なりそうな、ではなくて、本当に痛い。これは困った。なんとかならないものか。がんばれスクラルファート。

 平岡は長井得の会社の醜聞を書き立てるか、そのネタと引き換えに金をせしめるのではないかという読みがある。そもそも代助の兄に手紙を書いていること自体が意地が悪い。しかしそこには自分の女房を奪われた恨みがあるからフェアではないにせよやむを得ないものがあるように思われる。

 小林の場合は単なる嫌がらせでしかない……そう書こうとして、いや、
単なる嫌がらせではないのかもしれないなと思えてきた。仮に津田に浮気心があったとして、この時点ではまだ温泉旅館に行っているわけではないので、ゆする材料はないように思える。ここでは津田が何に対して何とも答えなかったのか考えるところだ。「恥知らず」を流したとするなら、「馬鹿野郎」が目くらましであり、津田の秘密とは清子とのことではなく、はっきりとした証拠のある小林との関係なのではなかろうか。そして小林の目的は人に嫌がられることで自分の存在を確認することではないのではなかろうか。

 ここでふと気がついたのだが、小林は自分を「恥を恥と思わない男」(八十八章)という。また「恥知らず」とも言う。本当の恥知らずはそんなことは言わない。本当の恥知らずは自分が恥ずかしいことをしていることに気が付かないからだ。五分の一じゃなくて五倍ですよと教えてあげても、いや五分の一だと言い張る。絶対評価ですよと教えても相対評価でいいんだと突っ張る。そこで頑張っても何の意味もないところで、ただ自分の恥を知るまいとする。私はそういう人間を何人も見てきた。小林は悪者のふりをしているが、本当は恥を知っている人間なのではなかろうか。それこそこの後恥知らずなふるまいをするのは津田自身なのである。小林はここでそんな津田を止めようと牽制しているだけの良い人なのかもしれない。

なにお秀さんじゃない

「しかしもう少し待ってたまえ。否でも応でも聴かされるよ」
 津田はまさかお秀がまた来る訳でもなかろうと思った
「なにお秀さんじゃない。お秀さんは直に来やしない。その代りに吉川の細君が来るんだ。嘘じゃないよ。この耳でたしかに聴いて来たんだもの。お秀さんは細君の来る時間まで明言したくらいだ。おおかたもう少ししたら来るだろう」
 お延の予言はあたった。津田がどうかして呼びつけたいと思っている吉川夫人は、いつの間にか来る事になっていた。

(夏目漱石『明暗』)

 ここはテレパシーでもなければ珍しく会話が手拍子になり過ぎたところか。津田は飽くまで思ったのであるから「なにお秀さんじゃない」という小林の返しは都合がよすぎる。

お延の予言はあたった

 そしてまた決定論だ何だという話になってしまう。この『明暗』では十六回も「予言」という言葉が出て來る。「偶然」は三十四回。この予言は……駄目だ。胃が痛い。




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