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芥川龍之介の『鼻』をどう読むか① 揺れてこそ

 これまで『鼻』に関しては、

①落し噺を換骨奪胎した構成が面白い
②文章が上手い

 という程度のことは書いてきたが、きっちり一つの作品として論ってはこなかった。しかしここにはまだ語るべきことがたくさんある。

③題名が簡素で良い

 夏目漱石作品も同じく題名は簡素、二文字が多い。『吾輩は猫である』も元は『猫傳』。芥川の場合一文字のものが二十作品以上ある。中身が一番短いものは『私が好きな作家』の「志賀氏」の三文字ということになろうが、これはインタビューのようなもので作品の数には入れぬ方が良かろうか。

 それにしても『鼻』一文字のタイトルは実に潔い。大袈裟な気取りや衒いがない。二文字のタイトルも五十六以上ある。しかもその中には『芋粥』『歯車』『河童』などの傑作も含まれているのだ。書籍化の際には一文字、二文字だと格好が付かないことを全然気にしていないところがいい。

④古い話を新しく書いているのが良い

 池の尾の町の者は、こう云う鼻をしている禅智内供のために、内供の俗でない事を仕合せだと云った。あの鼻では誰も妻になる女があるまいと思ったからである。中にはまた、あの鼻だから出家したのだろうと批評する者さえあった。しかし内供は、自分が僧であるために、幾分でもこの鼻に煩らわされる事が少くなったと思っていない。内供の自尊心は、妻帯と云うような結果的な事実に左右されるためには、余りにデリケイトに出来ていたのである。そこで内供は、積極的にも消極的にも、この自尊心の毀損を恢復しようと試みた。

(芥川龍之介『鼻』)

 デリケイトという言葉がまだなかったわけではない。時代が近いところでこの言葉を探すと大抵翻訳ものだ。昔の坊主の話にデリケイトを持ち出すのは凝っている。

内供は、震旦の話の序ついでに蜀漢の劉玄徳の耳が長かったと云う事を聞いた時に、それが鼻だったら、どのくらい自分は心細くなくなるだろうと思った。

(芥川龍之介『鼻』)

 この「心細さ」は例えば「あえか」に変えられなくもない。しかし「あえか」はデリケイトに似ているが少し違う意味だ。「あえか」ではないな「デリケイト」だというワードセンスが鋭い。

 これは、

その上、今日の空模様も少からず、この平安朝の下人の Sentimentalisme に影響した。

(芥川龍之介『羅生門』)

 こんな形でレトリックとして定式化されていく。


⑤嘘話が妙なリアリティを持つて語られているのが良い


 しばらく踏んでいると、やがて、粟粒のようなものが、鼻へ出来はじめた。云わば毛をむしった小鳥をそっくり丸炙にしたような形である。弟子の僧はこれを見ると、足を止めて独り言のようにこう云った。
 ――これを鑷子でぬけと申す事でござった。
 内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた。勿論弟子の僧の親切がわからない訳ではない。それは分っても、自分の鼻をまるで物品のように取扱うのが、不愉快に思われたからである。内供は、信用しない医者の手術をうける患者のような顔をして、不承不承に弟子の僧が、鼻の毛穴から鑷子で脂をとるのを眺めていた。脂は、鳥の羽の茎のような形をして、四分ばかりの長さにぬけるのである。

(芥川龍之介『鼻』)

 四分とはいかないまでも蒸しタオルで鼻を温めて指で押すと大抵の鼻から脂の粒のようなものが取れることだろう。この内供の鼻の脂取りの場面は滑稽ながら妙なリアリティを以て語られている。

 SF小説では最初にまず「ありえない設定」というものを一つ読者に認めさせてしまうことが重要なのだとされている。そうすれば、後はどんどん嘘を書いていくことができる。「ありえない設定」はタイムスリップでも大巨人の存在でもいい。『鼻』の場合は、その巨大な鼻だ。

 禅智内供の鼻と云えば、池の尾で知らない者はない。長さは五六寸あって上唇の上から顋の下まで下っている。形は元も先も同じように太い。云わば細長い腸詰のような物が、ぶらりと顔のまん中からぶら下っているのである。

(芥川龍之介『鼻』)

 このように冒頭でその「あり得ない設定」が嵌っているので、この「四分ばかりの長さ」の「鳥の羽の茎のような形」の鼻の脂にリアリティが感じられてしまうのだ。こういう書き方を見ると現代基準では「こなれている」ということになるのだろうが、まだSF小説の作法のない当時、漱石の目にはこれが「落ち着きがあって」と見えたのではなかろうか。「四分ばかりの長さ」の「鳥の羽の茎のような形」の鼻の脂を何とか納得してほしいという焦りがない。

 おそらく「内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた」というところに「自然そのままのおかしみがおっとりと出ているところに上品な趣があり」としたのであろう。

⑥あれこれ考えさせるところが良い

 しかし、その日はまだ一日、鼻がまた長くなりはしないかと云う不安があった。そこで内供は誦経する時にも、食事をする時にも、暇さえあれば手を出して、そっと鼻の先にさわって見た。が、鼻は行儀よく唇の上に納まっているだけで、格別それより下へぶら下って来る景色もない。それから一晩寝てあくる日早く眼がさめると内供はまず、第一に、自分の鼻を撫でて見た。鼻は依然として短い。内供はそこで、幾年にもなく、法華経書写の功を積んだ時のような、のびのびした気分になった。
 所が二三日たつ中に、内供は意外な事実を発見した。それは折から、用事があって、池の尾の寺を訪れた侍が、前よりも一層可笑しそうな顔をして、話も碌々せずに、じろじろ内供の鼻ばかり眺めていた事である。それのみならず、かつて、内供の鼻を粥の中へ落した事のある中童子なぞは、講堂の外で内供と行きちがった時に、始めは、下を向いて可笑しさをこらえていたが、とうとうこらえ兼ねたと見えて、一度にふっと吹き出してしまった。用を云いつかった下法師たちが、面と向っている間だけは、慎しんで聞いていても、内供が後さえ向けば、すぐにくすくす笑い出したのは、一度や二度の事ではない。

(芥川龍之介『鼻』)

 これはどう考えてもおちんちんの話だろうという気がする。りっぱなおちんちんが小さくなると笑われる。私にはそう思える。ここは好き好きで良いと思う。重要なのはその答えではなく、考えさせる仕掛けの方だ。長いものが短くなって笑われる。そういう仕掛けであれこれ考えさせることを「読ませる」というのだろう。内供に心を寄せればいやでも考えさせられるところ。「え、小さくなったのに何を笑ってんの?」と思わせたら勝ちで、やはりなかなかうまい仕掛けだと思う。

⑦いやそうじゃないだろと思わせるのが良い

 内供は慌てて鼻へ手をやった。手にさわるものは、昨夜の短い鼻ではない。上唇の上から顋の下まで、五六寸あまりもぶら下っている、昔の長い鼻である。内供は鼻が一夜の中に、また元の通り長くなったのを知った。そうしてそれと同時に、鼻が短くなった時と同じような、はればれした心もちが、どこからともなく帰って来るのを感じた。
 ――こうなれば、もう誰も哂うものはないにちがいない
 内供は心の中でこう自分に囁やいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

(芥川龍之介『鼻』)

 読んだ者全員が「いやそうじゃないだろ」と云いたくなる締めが良い。ちいさかったおちんちんがふたたび大きくなってぶらぶらしていれば、それはそれでおかしいものだ。おちんちんは所詮笑われるためにぶら下がっているものなのだ。この芥川の少し悪いところがこれからどんどん磨かれてかなり悪くなっていく。しかしそもそも顔面におちんちんみたいなものをぶら下げようという発想が凄い。流石は「そうだ、今回は冒頭に肛門を持ってこよう」と思いついた漱石の弟子だ。
 いや、この時はまだ弟子ではないが、弟子たる資格を十二分に有している。


[付記]

 とは言いながら『鼻』一作で芥川龍之介の才能を見抜いた漱石は凄い。「よくよく読めば」描写の仕方や表現の滑らかさなど、確かに器用なのだが、この時点では谷崎の方が先に目に留まっていてもおかしくはなかった筈なのだ。『歯車』まで読んで「も」とか「にょろにょろくん」に気がついてようやく『鼻』もいい、芥川は凄いと言えるのであって、『誕生』『刺青』『幇間』『少年』と並べられた無記名の原稿があってそこに『鼻』が混ぜられていて、『鼻』が満場一致の第一席かというと、流石にそうはならないと思う。

 しかし恐らく漱石はこの内供の鼻が固くなく、ぶらんぶらん揺れるところに気がついたのではなかろうか。魔女の鼻は長いが揺れはしない。この『鼻』の魅力はぶらんぶらんにある。

 まさに揺れてこそなのだ。

 

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