芥川龍之介の『鼻』をどう読むか① 揺れてこそ
これまで『鼻』に関しては、
①落し噺を換骨奪胎した構成が面白い
②文章が上手い
という程度のことは書いてきたが、きっちり一つの作品として論ってはこなかった。しかしここにはまだ語るべきことがたくさんある。
③題名が簡素で良い
夏目漱石作品も同じく題名は簡素、二文字が多い。『吾輩は猫である』も元は『猫傳』。芥川の場合一文字のものが二十作品以上ある。中身が一番短いものは『私が好きな作家』の「志賀氏」の三文字ということになろうが、これはインタビューのようなもので作品の数には入れぬ方が良かろうか。
それにしても『鼻』一文字のタイトルは実に潔い。大袈裟な気取りや衒いがない。二文字のタイトルも五十六以上ある。しかもその中には『芋粥』『歯車』『河童』などの傑作も含まれているのだ。書籍化の際には一文字、二文字だと格好が付かないことを全然気にしていないところがいい。
④古い話を新しく書いているのが良い
デリケイトという言葉がまだなかったわけではない。時代が近いところでこの言葉を探すと大抵翻訳ものだ。昔の坊主の話にデリケイトを持ち出すのは凝っている。
この「心細さ」は例えば「あえか」に変えられなくもない。しかし「あえか」はデリケイトに似ているが少し違う意味だ。「あえか」ではないな「デリケイト」だというワードセンスが鋭い。
これは、
こんな形でレトリックとして定式化されていく。
⑤嘘話が妙なリアリティを持つて語られているのが良い
四分とはいかないまでも蒸しタオルで鼻を温めて指で押すと大抵の鼻から脂の粒のようなものが取れることだろう。この内供の鼻の脂取りの場面は滑稽ながら妙なリアリティを以て語られている。
SF小説では最初にまず「ありえない設定」というものを一つ読者に認めさせてしまうことが重要なのだとされている。そうすれば、後はどんどん嘘を書いていくことができる。「ありえない設定」はタイムスリップでも大巨人の存在でもいい。『鼻』の場合は、その巨大な鼻だ。
このように冒頭でその「あり得ない設定」が嵌っているので、この「四分ばかりの長さ」の「鳥の羽の茎のような形」の鼻の脂にリアリティが感じられてしまうのだ。こういう書き方を見ると現代基準では「こなれている」ということになるのだろうが、まだSF小説の作法のない当時、漱石の目にはこれが「落ち着きがあって」と見えたのではなかろうか。「四分ばかりの長さ」の「鳥の羽の茎のような形」の鼻の脂を何とか納得してほしいという焦りがない。
おそらく「内供は、不足らしく頬をふくらせて、黙って弟子の僧のするなりに任せて置いた」というところに「自然そのままのおかしみがおっとりと出ているところに上品な趣があり」としたのであろう。
⑥あれこれ考えさせるところが良い
これはどう考えてもおちんちんの話だろうという気がする。りっぱなおちんちんが小さくなると笑われる。私にはそう思える。ここは好き好きで良いと思う。重要なのはその答えではなく、考えさせる仕掛けの方だ。長いものが短くなって笑われる。そういう仕掛けであれこれ考えさせることを「読ませる」というのだろう。内供に心を寄せればいやでも考えさせられるところ。「え、小さくなったのに何を笑ってんの?」と思わせたら勝ちで、やはりなかなかうまい仕掛けだと思う。
⑦いやそうじゃないだろと思わせるのが良い
読んだ者全員が「いやそうじゃないだろ」と云いたくなる締めが良い。ちいさかったおちんちんがふたたび大きくなってぶらぶらしていれば、それはそれでおかしいものだ。おちんちんは所詮笑われるためにぶら下がっているものなのだ。この芥川の少し悪いところがこれからどんどん磨かれてかなり悪くなっていく。しかしそもそも顔面におちんちんみたいなものをぶら下げようという発想が凄い。流石は「そうだ、今回は冒頭に肛門を持ってこよう」と思いついた漱石の弟子だ。
いや、この時はまだ弟子ではないが、弟子たる資格を十二分に有している。
[付記]
とは言いながら『鼻』一作で芥川龍之介の才能を見抜いた漱石は凄い。「よくよく読めば」描写の仕方や表現の滑らかさなど、確かに器用なのだが、この時点では谷崎の方が先に目に留まっていてもおかしくはなかった筈なのだ。『歯車』まで読んで「も」とか「にょろにょろくん」に気がついてようやく『鼻』もいい、芥川は凄いと言えるのであって、『誕生』『刺青』『幇間』『少年』と並べられた無記名の原稿があってそこに『鼻』が混ぜられていて、『鼻』が満場一致の第一席かというと、流石にそうはならないと思う。
しかし恐らく漱石はこの内供の鼻が固くなく、ぶらんぶらん揺れるところに気がついたのではなかろうか。魔女の鼻は長いが揺れはしない。この『鼻』の魅力はぶらんぶらんにある。
まさに揺れてこそなのだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?