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『彼岸過迄』を読む 21 田川敬太郎の父親は妻と子供を捨てたのか?

 みなさんは夏目漱石の『彼岸過迄』を読んだことがありますか?

 私はまだ読んでいる途中です途中です。まだまだ解らないことがあり、日々解り続けています。嘘ではありません。「読む」ということはそういうことなんです。

 もう一度冒頭から読み返してみますと、漱石がいつもにもまして、ぎりぎりの表現を使っていることが解りました。ぎりぎりとは、「普通はこうは書かないんじゃないか」という書き方です。どうもわざとやっています。「思う事が引っ懸ったなり居据って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間が度重なる」ように書いています。

 まず語用論的に引っ掛かりますが案外動きません

   言語学に語用論というものがあります。

 とそんなにまあ堅い話にしてもしょうがないので、いい加減にしますけど、「暇を貪る」とは言いますが「暇を食べる」とは言わないなあという話です。「糸口」を「掴む」と言えば「きっかけを掴む」というような意味になりますが、「糸口」を「開く」はどういう意味なんだろうというようなことを考える人がいたりいなかったりするという話です。「口」だから「開くで」いいようですが、「宵の口」は開きませんよね。就職先の「口」は探したり、見つけたり、ありついたり、失ったりしますがやはり開きません。「入口」や顔面についている口は開きます。しかし物事の初めの部分としての序の口は開かないんじゃないかという気がします。出口に這入ったり、入り口から出ると気持ち悪いじゃないですか。しかしこの気持ち悪さ具合には結構個人差があり、「こうは言うけどこうは言わない」は方言なども含めて結構曖昧なものです。

辛苦に辛苦を重ねた大復讐が唯此一事で緒口を開くのだと感じた爲である。(『巌窟王 : 史外史伝 巻之3』ヂュマ 著||黒岩涙香 訳扶桑堂 1906年)

 この一例以外、緒口は見つけられ、見出され、発見され、掴まれ、解かれ、引き出されています。『明暗』では取り上げられています。(広津柳浪も取り上げています。)『それから』では「付いて」、『行人』では「附きかけて」います。『千年の罠』(グウイ・ソーン 著||藤沢紫浪 訳渡辺新生社 1923年)では切られていますが、これは外に『吉田松陰 : 黎明日本の巨火』(山中峯太郎 著潮文閣 1942年)しか用例が見つかりません。「口火」の間違いかなとも思いますがどうなんでしょうか。堪忍袋の緒が切れる的な発想なのでしょうか。 

 つまり「歳の改まる元旦から、いよいよ事始める緒口(いとぐち)を開くように事がきまった時は」は少し変わった表現なのです。私はここは「端緒を開く」なのではないかと考えています。しかし動かせません。

 この後に続く「長い間抑られたものが伸びる時の楽みよりは、背中に背負された義務を片づける時機が来たという意味でまず何よりも嬉かった」の「抑られたものが伸びる」は慣用句ではなく抽象的な表現ですね。ここにも引っかかりますが、これはなんとなく意味を掴みかねたまま手を放すしかありません。「自分はすべて文壇に濫用される空疎な流行語を藉りて自分の作物の商標としたくない」もかなりの抽象的表現です。これは本文の、「そこまで解らないように書くか」という表現の肩慣らしでしょう。

敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して来た。元々頑丈にできた身体だから単に馳け歩くという労力だけなら大して苦にもなるまいとは自分でも承知しているが、思う事が引っ懸ったなり居据って動かなかったり、または引っ懸ろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間が度重なるに連れて、身体よりも頭の方がだんだん云う事を聞かなくなって来た。(夏目漱石『彼岸過迄』)

Keitaro has grown a little tired of the exercise and exertion he has been doing for the past few months. He is aware that his body is naturally strong, so the effort of simply running around would not be too much of a hardship, but as the number of times he has been stuck on a thought and it has not moved, or as soon as he tries to get stuck on a thought and puts out his hand, it falls off, his head, rather than his body, has gradually started to lose its grip. As I tried to hook it, it came off as soon as I put out my hand. (Natsume Soseki, "Higan kagan kara no kara")

Translated with www.DeepL.com/Translator (free version) 

敬太郎は、ここ数ヶ月の運動と労苦に少し疲れてきた。もともと丈夫な身体だから、ただ走り回るだけの努力は、さほど苦にならないことは承知しているが、思考に引っかかって動かない、あるいは思考に引っかかって手を出そうとしたとたんに、それが落ちてしまうということが何回も続くと、身体よりむしろ頭の方が、次第に握力を失ってきているのであった。引っ掛けようとして、手を出したとたんに外れる。(夏目漱石「彼岸過迄」)

  これは後になって「敬太郎は就職活動に悪戦苦闘して身体よりも頭が疲れていた」という意味だと解りますが、「運動と奔走」と云われて「就職活動」だなんて分かる人はまずいない筈です。DeepLはexercise and exertionと勝手に韻を踏んで「奔走」を「骨折り」のような意味に変えてしまっています。scramblingだとヒントを与えすぎなんでしょうね。

 で、今夜は少し癪も手伝って、飲みたくもない麦酒をわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁な気分を自分と誘って見た。けれどもいつまで経っても、ことさらに借着をして陽気がろうとする自覚が退かないので、しまいに下女を呼んで、そこいらを片づけさした。下女は敬太郎の顔を見て、「まあ田川さん」と云ったが、その後からまた「本当にまあ」とつけ足した。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これだってビール瓶の栓を抜いたとは書いていないので、瓶ビールを飲まない人には何のことか分からない記述です。そもそも飲んだとは書かないわけです。これは広義の転義でこなれていないメトニミーのようなものです。いや、そんなものミトメネーという人がいても反論しません。漱石の文章はかなりの割合で本来の使われ方とは別の意味で語句が使われていて、それを転義と呼ぶかどうかは別として、誤用と抽象表現のあわいをうねるからです。「まあ田川さん」も省略法と言えば省略法ですが、そもそも書いてあることより書かれていないことの方が圧倒的に多いわけですから、そういったレトリックの分類そのものにはあまり意味がないでしょう。一方でどういう転義がなされているのかということ、書かれていない部分に何があるのかを考えてみることは大切でしょう。これまでの読みは「引っ懸ろうとして手を出す途端にすぽりと外れたりする反間が度重なる」ものでした。

 反間はもういい加減にして、今日こそはしっかりつかんで見ましょう。

 敬太郎は夜中に二返眼を覚さました。一度は咽喉が渇いたため、一度は夢を見たためであった。三度目に眼が開いた時は、もう明るくなっていた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここなんですが、咽喉が渇いたため目が覚めた、でどうしたのかが書かれていません。枕元に冠水瓶、

 ……のようなものがあり、その水を飲んだのか、どうか?

 そして何故夢を見たら目が覚めたのか、考えてみることが必要でしょう。私はここを、

 ①冠水瓶ではなく水瓶の用意はあったので水は飲んだ

 ②便所に行く夢を見て目が覚めた

 ……と読みます。冠水瓶はともかく水瓶は平安時代からあり、酒飲みには必須アイテムでしたが、普段酒を飲まない田川敬太郎の枕元に水が用意してあったかどうかは怪しいと思います。冠水瓶は昭和三十年から昭和五十年代あたりにはどの家庭にもあったと思いますが、青空文庫で用例が見つからないので、案外新しいものかもしれません。

 そして夢を見ても冷汗はかいていないので、恐ろしい夢ではなかったと考えられます。起床後巻煙草を吸い、風呂に行くので喉の渇きは収まっています。だとしたらいかにも省略しすぎじゃないかと思いますが、どうも漱石はそういう書き方をしています。

 森本は自分で自分の腹をポンポン叩いて見せた。その腹は凹んで背中の方へ引っつけられてるようであった。
何しろ商売が商売だから身体は毀す一方ですよ。もっとも不養生もだいぶやりましたがね」と云った後で、急に思い出したようにアハハハと笑った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この「何しろ商売が商売だから身体は毀す一方ですよ」は、鉄道員の仕事の辛さを抽象的に表現してしまっています。「敬太郎が石鹸を塗けた頭をごしごしいわしたり」というのは「頭を洗う」のメトニミーで、敬太郎は長髪ではないということをも説明しています。「最後に瘠せた一塊の肉団をどぶりと湯の中に抛り込むように浸つけて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た」という表現の中には、「掛湯をして再び湯船に身を沈めた」という表現が省略されています。「たまに朝湯へ来ると綺麗いで好い心持ですね」という表現からは森本が普段湯を使うのは夜で、湯は垢で濁っていると読めます。

 そうやって読んでいくと「その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌む浪漫趣味の青年であった」に引っかかります。

 え? と思いました。「遺伝的に」ってことは、田川敬太郎の父親には平凡を忌む浪漫趣味があったという理屈になりませんか。つまり作中には全く姿を現さない田川敬太郎の父親は、例えば森本のような男ではなかったかと考えることができます。つまり田川敬太郎の父親は死んだのではなく、森本のように女房を捨てたんじゃないかと思えてきます。あるいは須永市蔵の父親のように小間使いの御弓を孕まして捨てるようなことをしたのではなかろうかと。

 この「遺伝的に」が母親のことだとは考えられません。

 彼も国元に一人の母を有つ身であった。けれども彼と彼の母との関係は、須永ほど親しくない代りに、須永ほどの因果に纏綿されていなかった。彼は自分が子である以上、親子の間を解し得たものと信じて疑わなかった。同時に親子の間は平凡なものと諦めていた。より込み入った親子は、たとえ想像が出来るにしても、いっこう腹にはこたえなかった。それが須永のために深く掘り下げられたような気がした。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 母との関係は平凡なんです。しかし須永の事情を聴いて、あ、須永の父親は結構クズなんだ、と気が付いたところで「須永のために深く掘り下げられたような気がした」とは、平凡ではない父親との関係について考えさせられたということではないでしょうか。そうでなければ、つまり作中に微かにしか現れない須永市蔵の父親のことを考えなければ、つまり須永市蔵の母と田川敬太郎の母を比較するのではなく、須永市蔵の父と田川敬太郎の父を比較するのでなければ、そもそも関係性が異なるので深く掘り下げられる要素はないのです。須永市蔵が自分の血の中に御弓を孕ませて捨てた父親の遺伝を感じ、田川敬太郎が自分の血の中に平凡な母を捨てた父親の遺伝を感じるのでなければ深くもなんともないわけです。

 そうすると「餓鬼が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ」という森本の言葉が効いてきます。

 敬太郎から見ると、すべて森本の過去には一種ロマンスの臭いが、箒星の尻尾のようにぼうっとおっかぶさって怪しい光を放っている。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 さて、度重なる反間を経て、改めて田川敬太郎の父親のことを考えてこなかった昨日までの自分がいかに迂闊だったかと反省させられます。「遺伝的に」に気が付かないで、『彼岸過迄』を読んだつもりになっていてはとても小学校八年生とは言えません。そんな人間は小学校七年生に過ぎません。でもこれまで田川敬太郎の父親のことを論じて来た『彼岸過迄』論ってありました?

 大上段から振りかぶって書かれたこの片岡良一の「『彼岸過迄』の意義」は「須永のために深く掘り下げられたような気がした」という言葉の意味に到達していません。


 ……というようなことが私の本には書いてあります。

 「遺伝的に」に気が付かなかった人は、もうそろそろ信じてくれてもいいんじゃないですか。いい加減に。

[余談]

 今更ながら村上春樹さんの『納屋を焼く』とウィリアム・フォークナーの『納屋は燃える』の関係を調べなきゃと焦る。というか冷汗ものだ。しかし『納屋を焼く』にはいくつものバージョンがあり、どこからどう手を付けたものやら。

『1Q84』において主人公の青豆がカルト教団「さきがけ」のリーダーを暗殺する場面は、『地獄の黙示録』で主人公のウィラードが、ジャングルの奥に自らの狂った王国を創り上げたカーツ大佐を暗殺する場面とそっくりです。
この曲名の「Airegin」、ひっくり返すと「Nigeria」、そうナイジェリアになる

 なんてこともあるので。

 やはり村上春樹さんの『パンや再襲撃』がクロポトキンの『パンの略取』と因縁があることは解っていたが、中身的にはほぼ関連は無くて、タイトルだけ似せたというところだ、みたいなこともあったし。

 まあ、村上春樹さんは私がやらなくても誰かやるからいいのかな。











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