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芥川龍之介の『お富の貞操』をどう読むか② 開化ものの物語構造

 前回は「解る」というところにフォーカスして『お富の貞操』を読んでみた。この『お富の貞操』は『奇怪な再会』や『あばばばば』に並ぶ、極めて読み応えのある作品だと思うので、もう少し別の角度から読んでみたい。

 おそらくこう言われている「最初にこじらせてしまった人」に私は区分されるだろう。もう何十年も永井哲学に触れながら、どうしてもその核の所、比類なき〈私〉には辿り着けないでいる。一方一応書かれている文字は理解できる。

 他人は存在しない、というのは極端なものの云いだと解る。しかし恐らく永井氏は他人は存在しないのではないかと本気で疑いながら、真面目に本を売っている。「他人は存在するにしても自分とは全く異質なものである真実」が見えなくなるのがここのところだ。他人が存在しないなら本は売れない。

 本を売るということは他人の存在を前提にしているということだ。他人が存在しないのなら、あるいは他人がまったく異質なものなら、本など書くことは出来ない筈だ。私には他人は存在しないと、それを真実と言い切る自信がないからこそ、自分の言葉をオープンにできる、という冷静さがある。

 他人が存在しないのに、本を売っている人は偽者か嘘つきの可能性が高い。

新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。活いき活きと、嬉しさうに。……

(芥川龍之介『お富の貞操』)

 色々と難しい話はさておくとして、例えば小説を読むということだけを考える時、読者はこのお富の微笑の意味を理解し、共感できればいいことになるのではないかと思う。しかし前回書いたように、ここには「解る」という問題に関する極めて現代的な解釈がある。

 しかし所詮お富は芥川が造形した架空の存在であり、我々は『お富の貞操』という作品を通して、芥川の思考のあり方と向き合っているに過ぎない。お富は一つの言葉でしかない。物語の構造は『開化の殺人』『舞踏会』『雛』で見てきたように、或る日の出来事を二十数年という長い時間を前後で挟み込む形で人の人生を捉えている。その物語構造においては『開化の良人』『南瓜』とは全く異質なものである。他人は存在するにしても自分とは全く異質なものであるとしても、ここにあらわれる物語構造そのものは誰しもが理解できる筈のものである。
 つまり他人は存在するにしても自分とは全く異質なものであるとしても芥川は物語構造というものを意識して作品を構築し得るほど、私に似ているのである。あるいは自分とは全く異質なものであるという感じが、読めば読むほどしなくなる。
 一方『舞踏会』は花火のような人生のはかなさを主題にした物語だ、という通俗的な解釈を信じて疑わない集団としての近代文学1.0の人々というものを夢想すると、まさにそういうものは存在するにしても自分とは全く異質なものであると感じてしまう。

 この問いと答えは見事にその異質な空間にある。そこには或る日の出来事を二十数年という長い時間を前後で挟み込む形で人の人生を捉えているといった物語構造を決して受け入れまいという頑なな意思が見える。ロジックが通用しない。

 私はむしろ他人と云うものはおそらく存在はしているが、まるでゾンビに見えるような形でしか私の前には現れないという現実をとても奇妙なものだと感じている。『お富の貞操』では言語化されない「わかる」があるということが書かれている。言語行為に現れる意志をそのまま新公の本心でもあるかのように浅はかに理解しては「すまない」のだが、実は芥川龍之介や夏目漱石、いや近代文学について何か書いている人は全員、ロジックが通用しないという魔法にかかっているのではないかと私は疑っている。

 例えば中島敦の『山月記』に関して「若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる」というふりと落ち、大きな物語構造を持っている、と書いても誰もそのロジックが受け止められない。

 虎と虎だよ、とこれほどシンプルな話はなかろうと思うが、それでも絶対に理解できない。それはやはり他人と云うものはおそらく存在はしているが、まるでゾンビに見えるような形でしか私の前には現れないという現実なのである。『お富の貞操』は明治元年、とは言うけれどもまだ明治になっていない明治元年五月十四日の記述から始まり、明治二十三年三月二十六日の話に繋がる。つまり人生というものは「花火のように一瞬で消えてしまうはかないもの」であるというような主題は、物語構造そのものが否定しているのだ。

 私の方ではここに譲歩の余地はない。

 ただ「他人は存在するにしても自分とは全く異質なものである真実」と言い切れないのは先月、私の本を立て続けに三十冊以上読んでくれた人がいたからだ。今月は五冊ほど本が売れている。つまり全員がゾンビなのではなく、極めて例外的にゾンビではない振舞を見せようとする他人が存在するのではないかと思えるのだ。

 開化ものとして認知されていない『南瓜』以外の開化ものは、『開化の良人』も含めて「花火のように一瞬で消えてしまうはかないもの」として人生を捉えていない。『南瓜』と『開化の良人』には時間を挟むという物語構造は持たないものの、『南瓜』は慶長六年の芝居を、『開化の良人』は神風連を持ち出すことで意識の中に過去を持ってくる。

 この物語構造が見えていたなら『舞踏会』だけを取り出して「人生は花火のように一瞬で消えてしまうはかないもの」などと言ってはなんだかすまない気にはならないものだろうか。

 しかしならないものだろうかと書いても、どうもなかなかならないものらしい。

 なかなか困難な時代だ。



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