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割とリアルだ 牧野信一の『嘆きの孔雀』をどう読むか④

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 若い男女が歩いていた。どちらもスニーカーでスポーティブなファッション。女の人はおんぶひもで赤ちゃんを前に抱いていた。男の人はトートバッグを持って空の乳母車を押していた。育休中のカップルかなと思ったが追い越しざまお互いが「うちは」「うちは」とそれぞれの家庭でのやりくりの違いを比較し合っていることに気がついた。

 つまり物事は見た目ではわからない。

「さあ、ではお話ししやうかね。」と私は勝ち誇つた勇士のやうな悦びで、今迄考へ込むで屏風を眺めてゐた顔を二人の前に向けました。
 美智子と艶子さんはもう私がとてもお噺など出来ない者だとあきらめてゞも居たのか、私がさう云つてにこ/\と笑つた時には、寧ろ案外だといふやうな顔をしました。
 私の眼には美智子の室が夢の国のやうに更に明るく見えました。屏風の孔雀が今にも私の傍へ来て何とか話しかけるのではないかといふ風に見えました――そこで私はエヘンと一つ落着いた咳ばらひをして坐り直しました。静かな夜の外気も私の噺をきくために黙つてゐるかのやうに――静かに更けてゐました。
 さて、このお噺下手の私がどんなおはなしを始めるでせうか。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 電球が明るかっただけですね。

 それから今の若い人は電球なんか知らないでしょうから言っておきますと、電球って熱いんです。艶消し電球が発明されるのは大正十二年なので、この当時の電球はガラスが透明で、とてもまぶしいものでした。金屏風な
んかまぶしくギラギラ光ったと思います。

 それから電球で照らされた部屋って、はっきり、くっきりとした影が出来るんです。何故か今シーリングライトだと蛍光灯ほども影が出来ないんですが、昔の電球っていうのははっきりくっきり影が出来ました。

 これ覚えておいてほしいんです。

 なんでか?

 さあ、なんででしょう。

二 不思議な国

「艶ちやんと美智ちやん、ちよつと眼を瞑つて御覧。」と私は二人に命令するやうに云ひました。お噺を始めると思ひきや、又私がそんなことを云ひ出したので、美智子と艶子さんは焦れ度ささうに同じやうに首を振つて、
「嫌々又兄さんはそんな事を云つて人をだまさうと思つてるのよ。」と云つてきゝませんでした。もつとも二人が私の言ふことに同意しないのも道理、此間も私はこんなことを云つて逃げ出したことがあつたのでしたから、がこの時こそは少しも二人を欺さうなどゝいふ狡い考へは私の考へに毛頭ありませんでしたから、
「いやいや、今日こそは欺すのではないよ。僕の噺はね、普通のお噺とは大分おもむきが異ふのだから、まづきゝては始めさうしなければいけないのさ。僕のお噺は面白い筋とかなんとかで運ぶのではないから――話す方もきく方も先づ噺が始まる前に――今僕が話さうとしてゐる噺の世界へほんとに自分が入つた気にならなければならないのだよ。もつとも話手が上手ならばきゝ手をひとりでに噺の中に引き入れてしまふのだがね――二人も知つてる通りこの人は(とこゝで私は仰山らしく自分で自分を指しながら)大の話下手なんだからさ、始まる前に道具立が入用なんだよ。いゝかえ。」と私が云ひますと、二人は私の手附を面白がつてお腹を抱えて笑ひました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 牧野信一は詐欺師になれる。

 人間は情報の八割を視覚から得ていると言われている。視覚情報を遮断することによって、より聴覚情報に意識を振り向けさせることが出来る。つまり言葉で相手をコントロールしやすくなる。目を瞑れというのは殆ど詐欺師のやり口だ。

 村上春樹さんや川上未映子さんが「文字」を捨ててまでaudibleに自作を積極展開しているのにもそうした理由があるのかもしれない。

 そんなことを笑はれては堪らない、と私は思ひましたからすぐに言葉を続けて、
「笑つてばかり居ればお噺をしないぜ。」と軽く叱るやうな眼付で「さあ、僕の云ふ通り二人ともちやんと眼をつぶつて御覧。」と云ひました。で仕方がなしに美智子と艶子さんはおとなしく眼をつぶりました。真面目になつて坐つてゐる二人の様子を見ると私も何だか可笑しくなつてもう少しで噴き出しさうになりましたが、笑つては大変だとやつと我慢しました。二人は私が可笑しさを堪こらえてゐるなどゝいふことは夢にも知りませんから、今か今かと待つて居りました。この儘にしてそつと逃げてしまはうかと思ひましたが、それでは余り二人に悪いし、それこそあとでどんなにおこられるかわかりませんでしたから、いよいよ私はお噺のいとぐちにとりかゝらうと決心しました。ところで私は眼を瞑つてゐる二人にむかつて、
さうやつてゐると、眼の前に何か見えるだらう。」と尋ねました。すると二人は暫くもじもじしてゐましたが、やつとのことで、
「えゝ。」と答へました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 ここなんですけどね。

 今実際シーリングライトで試すと目を閉じた状態だと何も見えないんですが、白熱球のクリップライトが傍にあるので試してみたら、何か見えるんですよ。目を閉じても暗闇にはならない。勿論スイッチを押しての点滅ははっきり分かります。

 これ『ランプの明滅』を書いていて思いついたことではないでしょうか。

 真暗な中に凝として、笑ひと悲しみの分岐点にたたずんでゐる自分を瞶めた。恋情といふものは極めて滑稽なものだ、と思ひながら、彼は静坐の姿勢で眼を瞑つた。

(牧野信一『ランプの明滅』)

 こうあるんですが、

「電灯が消えて、試験だつてえのに困るわね。」といふ声でパツと室が明るくなつた。ランプを持つて来た照子は、彼の眼に涙がたまつてゐるのを不思議さうに見た。

(牧野信一『ランプの明滅』)

 こうあって「パツと室が明るくなつた」は、眼を閉じたまま感じたことなのではないかと。

 しかし当然目を閉じているので何かがはっきり見えるということはないわけです。

「何が見えるの?」と私は直ぐに問ひ返しました。
「明るいものが見えてよ。」と云ひました。
「明るいもの?、ウムそれでいゝのだ。でその明るいものをよく瞶めて御覧。」私は尚もかう云ひました。
「さうすると、その明るいものがいろいろの形になつてくるだらう。さうして自分の考へ通りなものが写つて来るだらう。」
 二人は凝と、私に云はるゝが儘にある想ひに耽り始めました。
「えゝ、なるわ。」と云ひました。
「なるだらう。明るい世界に金色の渦が巻いてゐるだらう。」
「えゝ。」

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 この流れ、ひどくリアルじゃないですか。白熱球で試してください。明るい世界に金色の渦が巻いてゐるなんてことはないんですが、見えない世界が明るいということまでは感じる筈です。
 これ、「私」さんがやっていることは殆どお話の前置きでなくて、催眠術ですよね。

「自分が今自分の室に坐つて、僕の噺をきいてゐるのだとは思へなくなるだらう。冬の夜といふことも、明るい電灯のついた前に居るのだ、といふことも忘れることが出来るだらう。――若しさう思へなければ強いてさう思ふのだよ。さうすれば何か美しいものが眼の前に現れて来る筈だ。」私はまるで自分が魔術師にでもなつたやうな晴れやかな気持でこんなことを云ひました。と思ふとどうやら二人は私の魔術にでもかゝつたかのやうに、私の云ふ通りに種々いろ/\と想ひに耽る様子でした。
「何が見えて?」と私が問ひました。
「――」二人は何とも云ひませんでした。この答へが出来ないのは無理もないのです。何故ならかういふ場合に眼の前に浮ぶものはたゞぼんやりとした美しい虹で、――若しそれを花と思へ、と云はれゝば花とも思へるし、美しい景色と思へ、と云はれゝばさうも思へるので、――一口に何だ、と返答することが出来ないのはあたりまへです。かういふことを私は知つてゐましたから、こゝで思ひ切つて、
「孔雀のことを考へて御覧。」と云ひました。私の云つたことはまんまと成功して二人の眼の前の今迄の美しい金色の虹は一羽の孔雀と変りました。
「えゝ孔雀が見えてよ。」と二人は答へました。そこで私はもう眼を空いてもいゝと云ひました。

(牧野信一『嘆きの孔雀』)

 しかし牧野が書いているのは科学実験ではなく言葉の力と視覚情報の不確かさです。美智子と艶子さんの二人はさっきまで大きな孔雀の金屏風を見ていますから、孔雀を思い浮かべることは容易なのです。長々した前置きの末、苦しいごまかしをしてくるなと思えば、今回は「頭のおかしい自分」というキャラクターを封印して、言葉の力と視覚情報の不確かさについて書いてきた。

 しかしこれもまだ前振りに過ぎない。どんな話に繋がる前振りなのかということはまだ誰も知らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。

[余談]

 近い以外にまいばすけっとの意味なくない?

 


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