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大人の教科書編纂委員会はどの程度教科書を読めているのか② 夏目漱石

自分の意見を持とうよ


 夏目漱石の『坊っちゃん』について「評論家の間では駄作と見る向きもあるが」と大人の教科書編纂委員会は書いています。(『大人の教科書 国語の時間』青春出版社、2002年)そして「たとえそうだとしても100年間日本人に愛され続けたという歴史の前では説得力も半減してしまうだろう」と続きます。何が云いたいのか、さっぱりわかりません。
 自分の意見が書けていません。そもそも『坊っちゃん』を駄作と云う評論家の根拠って何なんでしょうか。喜劇性ですかね。そこを批判できないで、「100年間日本人に愛され続けたという歴史の前では」などと云いだすのは、流石に駄目でしょう。まず『坊っちゃん』のどこがどう良いのか、自分の意見が書けないで、何で大人の教科書編纂委員会なんですかね。

 丸谷才一は『坊っちゃん』をゆるみの一切ない傑作、疑似英雄詩と見做します。痛快だから好き、でもいいと思うのです。ただ、松山を馬鹿にしすぎだから駄作では理屈になりませんよね。「たけしの挑戦状」は愛すべき「糞ゲー」でしょう。逆に愛されたから傑作というわけではないでしょう。

 漱石自身も、自作の文体について読み直してみて、『草枕』や『虞美人草』は駄目で『坊っちゃん』が良いと云っています。確かに先ず『坊っちゃん』は小粒ながら、文体は好いですね。勢いがあって淀みがない。変に閊える所もない。だから「親譲りの無鉄砲」という謎のロジックにも気づかせないわけです。書き出しでこれだけ可笑しなロジックをはめ込んだ小説というのも前代未聞でしょう。

 それに『坊っちゃん』の回想型の構造は結局後期三部作によって完成されるのですが、『坊っちゃん』は『こころ』並みにしっかりと組まれている感じがします。『二百十日』や『野分』など、単純時間進行型の構造よりもやはり手が込んでいるというか、工夫が見られます。一番関心するのは回想型の構造であるために、街鉄の技師になった以降の生活の一部が感じ取れることです。単純時間進行型の構造ではそうはいきません。

この三年間は四畳半に蟄居して小言はただの一度も聞いた事がない。喧嘩もせずに済んだ。おれの生涯のうちでは比較的呑気な時節であった。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 この語り手が既に街鉄の技師以降の人生を経験していることから、街鉄でも色々やらかしているんだろうなと察することが出来ます。こういうところは本当に上手いなあと思います。こんな仕掛けをさらっと組み込むことのできる作家って他にいますかね。これを駄作という奴の顔が見てみたいものです。

 試しに『坊っちゃん』+「駄作」で検索したら、如何にも低レベルな掲示板に辿り着きました。深刻小説も家族小説も光明小説も知らなさそうな子供たちの議論です。大人なら『坊っちゃん』のどこがどう良いのか、自分の意見を持てないと駄目ですね。

作品の構造を理解しよう


 物語は上中下の3章で構成されている。上では語り手である「私」がのちに"先生"と自らが慕う憂いを帯びた男性との出会いを回想する。(『大人の教科書 国語の時間』青春出版社、2002年)

 これは典型的な『こころ』の誤読です。冒頭部は先生の遺書の後にあります。先生が全肯定されるのが上です。この人は「今に返すよと云ったぎり、返さない。今となっては十倍にして返してやりたくても返せない」という『坊っちゃん』の構造が掴めていないのではないでしょうか。これは教科書で後半の一部分が切り取られて、お金の問題や話者の立ち位置が見えなくなってしまっているという国語教科書の最大の問題に根差した誤読でしょう。
 つまり冒頭のすがすがしさも、全肯定される先生も、話者の立ち位置や現在も、静と云う名前の意味も何もかも理解できていないわけです。

 それでどうして大人の教科書編纂委員会なんてやろうとしたんですかね。いや、そんなことには全く興味がありませんという人が『こころ』についてこんなことを書いていれば仕方ないのですが、そんな人はそもそも『こころ』について何も書かないでしょう。興味がないんだから。興味がある筈なのに、何も疑問に思わない、全く深掘りしない、断固として考えない、調べない、……。

 これでは大人の教科書編纂委員会ではなくて汚染データ発信委員会ですよ。

無理に知ったかぶりしなくても


 だが一般に、漱石三部作と呼ばれるものはこれらではないことをご存知だろうか。意外かもしれないが、『三四郎』『それから』『門』なのである。(『大人の教科書 国語の時間』青春出版社、2002年)

 大人は兎角知ったかぶりをしてしまうものなのでしょうか。いえ、大人かどうかの問題ではなく、これは大人の教科書編纂委員会の資質の問題ですね。

 書かれているのは漱石三部作の説明ではなく前期三部作と呼ばれているものの説明になっています。私はこれが中期でもいいのではないかと考えているますが、漱石三部作とくくるのは流石にどうかと思います。この「意外なことに」という書きっぷりからすると、『三四郎』『それから』『門』を漱石の代表作と勘違いしているのかもしれません。まあ、どれが代表作でもいいのですが、こうまで得意げに間違える必要はないのではないかと思います。

 ちなみに後期三部作は話者が手紙を読むという同じ構造を持つためやはり三部作でよく、『吾輩は猫である』から『坑夫』まではなんともまとまりを持たないので何部作と呼ばれないのは仕方がないかなと私は思っています。






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