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谷崎潤一郎の『卍』をどう読むか⑧ 意外と近くに住んでゐる

地図を見ないと気が付かない

 でも前の事件の時分は結婚して間もないことで、まだ処女時代の純真さ持ってましたから、今よりはうぶで、気イ小そうて、夫に済まんいう心持強いでしたけど、その手紙にもありますように今度はさっぱりそんな気持になりませなんだ。わたしかって、ほんまいうたら夫の知らん間にたんと苦労しましたのんで、だんだん擦れて、ずるうなってたのんですが、夫にはそれ分らんと、いまだに子供や子供や思てます。わたし最初それが口惜しいてなりませんでしたが、口惜しがるとなお馬鹿にしられるので、ようし、向が子供や思てるのんなら、何処までもそう思わして、油断さしてやれ、と、次第にそんな気イになりました。うわべはいかにもやんちゃ装うて、都合の悪い時はだだこねたり甘えたりして、お腹の中では、ふん、人を子供や思てええ気イになってる、あんたこそお人好しのぼんぼんやないか。あんたみたいな人欺すぐらいじッきやわ、と、嘲弄するようになって、しまいにはそれが面白うて何ぞいうとすぐ泣いたり怒鳴ったりして、自分ながら末恐ろしいなるほど芝居するのんが上手になってしもて、……先生なんかこんなことよう分っておられますやろけど、ほんまに人間の心理いうもん境遇によってえらいえらい変りようするもんですなあ。

(谷崎潤一郎『卍』)

 結婚すると女は三倍強くなると言われる。何基準で三倍なのかは分からないがおそらくそういう傾向というものはあるのだろう。特に大阪のおばちゃんは。
 女は強い。強くなる。
 しかしまだ大したことが起きている訳でもない。「その八」なのに、

「そうそう、宝塚の新温泉どうやろ?」と、光子さんがいい出しなさって、二人で向い行て家族風呂い這入りながら、「姉ちゃんずるいわ、あての裸ばっかり見せてくれ見せてくれいうて、自分のんちっとも見せん癖に。」「あてずるいことないねんけど、あんたがあんまり白いよって恥かしいねん。あんた、こんな黒い体見ても愛想尽かさんといてなあ」いうたりしましたが、わたしほんとに、自分の肌初めて光子さんに見せた時は、一緒に並ぶのんイヤな気イしました。光子さんは色が飛び切り白いだけでのうて、体の釣合いよう取れてて、姿がすらッとしてなさるのんで、それに比べたら、何や急に自分の体無細工に思われて来て、……「姉ちゃんかって綺麗やないかいな、あてとちっとも変れへんもん」いわれますと、しまいにはそれを真に受けて何とも思わんようになりましたけど、……初めはわたし身がちぢむように感じました。

(谷崎潤一郎『卍』)

 まだ風呂に入る程度である。風呂なんてみんな入る。同姓が風呂に入ることは異常ではない。まだ格別可笑しなことはしていない。手紙のテンションがおかしく、夫には隠さなくてはならない親密さが隠されているだけだ。しかし夫は変態性欲を見出してしまう。

「なんぼ女同士やかて昼日中若い女が裸になったりして、お前らまるで気違い沙汰やな。」「うちあんたのようにコンヴェンションに囚われてえへんよってなあ。――あんた、映画女優の裸体見てつくづく綺麗やなあと感じたことあれへんか? うちやったらそんな時ええ景色見るのんと同じようにうっとりとして何ちゅうことなしに幸福な、生きがいある感じして来て、しまいには涙出て来んねん。『美』の感覚のない人に説明したかて分れへんやろけど。」「そんなことが『美』の感覚と何の関係あるもんか、そら変態性慾や。」「あんたこそ頭古いねん。」「馬鹿いいな! お前は年中しょうむない恋愛小説ばっかり読んでるよって、文学中毒起してんねん。」

(谷崎潤一郎『卍』)

 美の感覚か変態性欲か……。
 そんなことを考えながら読み進めると徳光光子が婚約者綿貫栄次郎と宗右衛門町や心斎橋筋のつい裏通りの旅館井筒で着物や財布を盗まれるという事件に出くわす。そして徳光光子の家は蘆屋川の停留所から川の西をもっと山の方に行って、汐見桜という名高い桜ある近所だと解る。船場の御嬢さんかと思っていたが、どうも話が違う。
 替えの着物を井筒に届けた柿内園子は阪急で夙川まで後戻りして、タクシーで香櫨園の自宅に戻る。
 え?
 香櫨園? 香露園じゃなくて?


 つまり柿内園子の自宅は梅田駅より北と見做していたが……。香露園でなくて香櫨園ということは、全然西の兵庫県の、ええと……どの辺だ?
 ん、ここか。つまり通学路は、なんや、偉い遠いな。

 しかしこっちなると……。香櫨園だとかなり話が変わってくるぞ。何しろ、

 こうなのだから。つまり徳光光子の家も、柿内園子の家も尼崎、鳴尾、西宮の向こうだったのだ。これは旦那の立場で東京で考えると、荻窪の人が新宿に通っていたくらいの感覚だろうか。

 兎に角この事件の結果、

「くやしいッー」と、身イふるわして泣きながら、今度はこっちからしがみ着いて、「くやしいッ、くやしいッ、くやしいッ」と、夫の体掻かきむしるように揺ゆさ振ぶりました。「何や、何でそない口惜しい?」夫は出来るだけ優しいに、「え? 何が口惜しいのかいうてみい、泣いてたら分れへんがな、え? どないしてん?」いうて手のひらで涙拭てくれて、なだめたり、すかしたりしてくれますので、なお悲しゅうなって、あーあ、やっぱり夫は有難い、自分は罰中あたったんや、もうもうあんな人のこと思い切って、一生この人の愛に縋ろう、――と、一途に後悔の念湧て、「うち今夜のことみんないうてしまうさかい、きっと堪忍しとくなはれなあ」と、とうど夫に今までのことすっかり話してしまいました。

(谷崎潤一郎『卍』)

 と、いったん収まりそうになる。何しろまだ一線は超えていないないのだから、ここで関係が切れればなんということもなくなる。柿内園子は学校を辞めようかと言い始める。しかし、二人の家は芦屋川と香櫨園なのだ。

 これで話が終わるわけもない。何故ならまだ「その十二」の途中なのだから。



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