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則天去私について


  小宮豊隆によれば「則天去私」とはこのようなものであるらしい。


  ただ先生が、自分のモットオとしてゐた「則天去私」を説明して、例へば自分の娘が不意にめつかちになつて自分の眼の前に現はれて來るといふやうなことがあつても、それを「ああ、さうか」と言つて見てゐられる心境を獲得するのが「則天去私」の世界なのだと言つたその日が、十一月十六日の最後の木曜日のことなのか、それともその前週の十一月九日のことなのかに就いては、少しはつきりしない所があつて、なんともきめられない。
 松岡讓の『漱石先生』によると、それは十一月九日のことだといふことになつてゐる。さうしてその日は「芥川と久米と大學生が一人と、さうして私との四人」だけだつたとあり、「次の木曜には……座敷へ入り切れない位人が集まつて」「『則天去私』の文學觀なんぞも出た」が、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」とある。それはそれでいいが、然し安倍能成もこの話をはつきりきいてゐるといふのである。もしそれが十一月九日のことだつたとすると、その晩は「芥川と久米と大學生が一人と、さうして私との四人」だけだつたといふのが辻褄が合はない。又もしそれが十一月十六日のことだつたとすると、「『則天去私』の文學觀なんぞも出た」が、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」とあるのが少しをかしい。先生が娘がめつかちになつて出て來るといふ話を二度持ち出すといふことからがをかしいし、假に二度持ち出すことがあり得たとしても、先生は安倍とその心境の獲得の方法に就いて、相當重要な話をした筈だから、この間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」といふのも、をかしくないことはない。もつとも安倍によると、その話の發展の途中で、先生の機嫌が少し惡くなつたといふことだから、その爲め、松岡にはこの間の晩ほど「しんみりしたものではなかつた」と感じられたのかも知れない。
 それは然し、今どうともはつきりきめるわけには行かない。ただきめることのできるのは、明治三十九年(一九〇六)十月十一日に初まつた木曜會が、大正五年(一九一六)十一月十六日に終つたといふことだけである。(二五・一二・三一)(『知られざる漱石』小宮豐隆)

 解ったような解らない説明である。例えば、であるから、もう一つ例えが出てくると全く違った意味になるかもしれない。損をしても平気、得もない。その起点となる位置がない。自分がない。そんな感じはあるものの、それは「則天去私」のうち「去私」の部分であり、どういう具合で「則天」になるのか今一つ解らない。「自分の娘が不意にめつかちになつて自分の眼の前に現はれて來るといふやうなことがあつても、それを「ああ、さうか」と言つて見てゐられる心境を獲得するのが「則天去私」の世界なのだ」これだけをヒントに「則天」に辿り着くのはどうも無理なように思える。ただ「則天」が酷く不人情なのが解る。それが立派な事かどうか甚だ疑わしくもある。どうしてそのような不人情な心境を獲得しなければならないのか疑問である。

 これは身体性の放棄、トラセンダルアイになりたいということではないことでもなかろう。人間の世界で言えばこれは阿呆である。阿呆ではあるが、それはもしかして私がこれから書こうとしている「腑抜け」の境地でもあろうか。もしもそうなのだとしたら、それは凄い。いや、本当に凄い。

 




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