見出し画像

岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する118 夏目漱石『こころ』をどう読むか495 ゲイの話はもういいだろう

不幸な女だ

 母は死にました。私と妻はたった二人ぎりになりました。妻は私に向って、これから世の中で頼りにするものは一人しかなくなったといいました。自分自身さえ頼りにする事のできない私は、妻の顔を見て思わず涙ぐみました。そうして妻を不幸な女だと思いました。また不幸な女だと口へ出してもいいました。妻はなぜだと聞きます。妻には私の意味が解らないのです。私もそれを説明してやる事ができないのです。妻は泣きました。私が不断からひねくれた考えで彼女を観察しているために、そんな事もいうようになるのだと恨みました。

(夏目漱石『こころ』)

 大抵の「現代文B」がここを掲載範囲に含めていようことから、当然この「不幸な女だ」という理由も想定問答集に書かれている筈だ。ではどうだろう。

【設問①】

 ここで妻が不幸だと言われる理由は何か?

 これは考えるまでもなく「夫が頼りないから」ということになるのだろうか?

 いえいえ、もう少し具体的に書かないと満点にはならないだろう。

 ここは、前の章のここと因縁付て、

私はしまいにKが私のようにたった一人で淋くって仕方がなくなった結果、急に所決したのではなかろうかと疑い出しました。そうしてまた慄っとしたのです。私もKの歩いた路を、Kと同じように辿っているのだという予覚が、折々風のように私の胸を横過り始めたからです。

(夏目漱石『こころ』)

 いずれ自分も死んでしまう予感がしていたから、ということまで書いた方がいいだろう。たんに性格として頼りないのではなく、存在そのものが頼れないというところに言及すべきであろう。

 ここで「ゲイだから」と答えたらさすがに馬鹿だ。

箇人を離れてもっと広い背景

 母の亡くなった後、私はできるだけ妻を親切に取り扱ってやりました。ただ、当人を愛していたからばかりではありません。私の親切には箇人を離れてもっと広い背景があったようです。ちょうど妻の母の看護をしたと同じ意味で、私の心は動いたらしいのです。妻は満足らしく見えました。けれどもその満足のうちには、私を理解し得ないために起るぼんやりした稀薄な点がどこかに含まれているようでした。しかし妻が私を理解し得たにしたところで、この物足りなさは増すとも減る気遣いはなかったのです。女には大きな人道の立場から来る愛情よりも、多少義理をはずれても自分だけに集注される親切を嬉しがる性質が、男よりも強いように思われますから。

(夏目漱石『こころ』)

 ここもホモ疑惑に持っていかれやすいところ。しかしホモだって個人間のやり取りだ。しかし箇人を離れてもっと広い背景とはどういうことなのか、ということは矢張りわかりにくい。これが当然、

 人間を愛し得うる人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入いろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。

(夏目漱石『こころ』)

 ここに繋がることは解る。しかし理屈として解るのであって、先生のふるまいそのものは具体性を欠いていて、「私」の解釈にも贔屓の引き倒しのようなものが感じられてしまう。例えばここを「大きな人道の立場から妻を愛した」と読んでしまうと、やはり何か間が抜けた感じになってしまう。しかしそう書いてある。「箇人を離れてもっと広い背景」「大きな人道の立場」と言われてしまうと、これが夏目漱石ではなく、もっといい加減な作家の書いたものならば、イエス・キリストでも持ち出せば上手く話しがまとめられるのにと恨めしく思う。

 いやこれは、もしかして、

・「私」がKの生まれ変わりであること
・「私」が全裸で泳ぐこと
・先生の血が「私」に流れていること
・先生の手紙を四つ折りにすること
・「とくに死んでいるでしょう」と書かれているのに安否が解らないこと
・乃木静子が殉死すること

 といった無理な話の一つで、

・先生がイエス・キリストみたい
・あの夏目漱石がイエス・キリストみたいな事を書いた

 という無理のダメ押しなのではなかろうか? 今のところ私にはこの程度の考えしかない。これではまだ正解という自信はない。

 とにもかくにも「箇人を離れてもっと広い背景」「大きな人道の立場」から妻を愛するなどという屁理屈は「則天去私」なる謎の呪文でも説明できない。それでもここを解ったふりでスルーするのは本当に駄目なことなんじゃなかろうか。「ここまでは解る」「ここは解らない」と書かないといけない。スルーそのものが「知ったかぶり」なのだ。

物凄い閃き

 妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧な返事をしておきました。妻は自分の過去を振り返って眺めているようでしたが、やがて微かな溜息を洩らしました。
 私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃きました。初めはそれが偶然外から襲って来るのです。私は驚きました。私はぞっとしました。しかししばらくしている中に、私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました。しまいには外から来ないでも、自分の胸の底に生れた時から潜んでいるもののごとくに思われ出して来たのです。私はそうした心持になるたびに、自分の頭がどうかしたのではなかろうかと疑ってみました。けれども私は医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした。

(夏目漱石『こころ』)

 ここも岩波が注を付けないので「ホモ疑惑」で解説している人がいる。「男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれない」→男と男なら一つになれる。「医者にも誰にも診てもらう気にはなりませんでした」→ホモは病気ではないから。「私の心がその物凄い閃きに応ずるようになりました」→ホモを自覚してむらむらしてきた。……こんな風に読み解けば何でもホモ話になつてしまう。

 しかし「若い時なら(男女の心が一つに)なれるだろう」という理窟から考えて、そこから物凄い閃きに応ずるとなると、若い時には異性と愛し合えるが、ある程度年を取ると(といっても先生は計算上では飽くまでも四十歳手前なのだが)、同性愛者は同性としか通じ合えなくなる、とでも言っているような話になり、

①「異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」という「同性愛通過儀礼説」と矛盾する。

②実は先生の恋人はKだったとしたい腐女子の皆さんを敵に回す。

 という大きな問題が生じることになる。

 そこでしぶしぶ「ホモ疑惑」なしでこの「物凄い閃き」の正体について考えて行くと、それは「私はただ人間の罪というものを深く感じたのです」と続くことから「人間の罪」であるとまずは言える。

 しかしそれは具体化されないことから「解くべきではないパズル」なのではないかと思えてくる。それをどこまで拡大するかは別として、先生はこの「物凄い閃き」のきっかけとして、「男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうか」という妻の問いを置く。すると当然、「Kと自分の心も一つにはなれなかった」と思い浮かぶ。
 そこで頭の中にいくつかのパズルの破片が浮かぶ。真砂町事件、丁度良いやってくれ、覚悟ならないこともない、近頃は熟睡ができるのか……。

 あるいは自分自身の心でさえ明確ではないのにと考えた時に浮かんだパズルの破片には、信仰に近い愛情、下さい、ぜひ下さい、何かお祝いを上げたいが……、が浮かび……。

 そうした破片は決して明確な像を結ばないままただ物凄い閃きに留まり、「人間の罪」という抽象的なもののまま先生にのしかかってきたのではなかろうか。先生はKが先生の御嬢さんに対する愛情に気が付きながら先生を出し抜こうとしたことに明確には気が付かない。あるいは奥さんがうすうす事件と結婚との間に関連があることを知りつつ先生と密かな共謀を果たしたことに明確には気が付かない
 しかし自分を完全に打ちのめす「物凄い閃き」によって「人間の罪」という大きなものに突き当たってしまった。その言葉のチョイスがキリスト教的過ぎるとか、具体性を欠くとかいう批判はおそらく当たらない。

 この物語の書かれていない反対側の世界には、非常に具体的な罪でありながら全く意味の解らない死体が一つ転がっている。私はこれまで乃木静子の殉死を「陰謀説」や「真犯人説」には決してしてこなかった。ただおそらくそれは「人間の罪」である。神の罪ではない。「解くべきではないパズル」と云うものは確かにある。


[余談]

 それでもどうしても断って置かねばならないのは、「ホモ疑惑」自体は漱石が仕掛けたふりであるという事実だ。落ちがないままの『明暗』には「結核性ではない痔瘻」「男と男が結ばれる成仏」といったふりだけが残されている。『こころ』にも前半には「猿股一つの西洋人」などのふりがあったことから「ホモ疑惑」を抱いても馬鹿ではない。ただ押し通すと馬鹿である。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?