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五六寸水仙白く城下町 夏目漱石の俳句をどう読むか93

炭売の鷹括し来る城下哉

 子規の評点「◎」。解説に「鷹括」の説明はない。ということはそのまま、城下町に炭売りがやってきて、その荷に鷹が括りつけられていたという意味になるのだろうか。
 その鷹もまた売り物なら、鷹売りともなろうが、兎に角黒いから炭売りと見做されているわけだ。まさか炭売りが町で鷹狩りはすまい。

 そもそもたかというのが恐ろしいような感じがして、炭売りとは合わない感じがする。その合わない感じが良いというのが子規の見立てであろうか。その絵面は少しやかましい。やかましさが年の暮れの感じを表しているようにも思える。

炭売りに煮られる鷹の哀れかな 

一時雨此山門に偈をかゝん

 解説に「偈は仏教の真理を詩の形で述べたもの」とある。まあ真理と言うか詩だ。

 この句にも特にこうという解釈は見当たらない。親鸞に『入出二門偈』というものがあり、その門のことかと思えばその門の中には山門は入っていなかった。

 で一応門の解釈はさておき偈の方の解釈は二通りにできるように思う。時雨が降ってきたので山門に隠れて雨宿りする間、暇つぶしに偈でも書きつけてやろうという、まあ落書きの悪戯とは言わないが、寺に偈という釈迦に説法的なふるまいなのか、それとも埃で白くなっていた山門の柱に雨が短い跡をつけていく様子を偈のようだと見做したのか、そんな二通りの景色が見える。

 こちらは先ほどの句と真逆で山門に偈で付き過ぎているようでありながら、時雨と偈がまた中々ない取り合わせではないかと思う。

五六寸去年と今年の落葉哉

 これは迷う。普通に読めば、去年と今年の落葉が積もって五六寸になっていることだなあというところである。

五六寸超ふかふかの落葉かな

 こんな感じで。

 しかし理屈を言えば、自然に落葉の腐敗と分解が進む落葉樹林では常にそうした状態が繰り返されてきたわけで、去年の落葉の下には一昨年の落葉の腐葉土があるわけだし、去年の落葉ももう腐葉土に近づいているかもしれない。暮れなんだから。その境目はグラテーションで、しかも見えているのは恐らく今年の落葉だけと言いうことになる。

 もし仮にこの句は年明けの明治二十九年一月を先取りした句だとすると目の前にはまさに去年と今年の落葉がありうる?

 いや一月に落ちる落葉はなかろう。

 つまり、

五六寸全部今年の落葉かな

五六寸今年の落葉の下は土

 こういうことにならないだろうか。まあ柔らかい地面を踏みしめて感触を楽しんでる暇人がいるなあという句である。

水仙白く古道顔色を照らしけり

 なんか、『奔馬』にあったような話だ。解説に「つまり目の前に昔の忠臣、義士が髣髴する、の意」とある。うむ。

 水仙が白い。清らかだ。ああ、いかんいかん、こんなことではいかん、維新の志士のように頑張らないと、という意味か。

 しかし何故水仙が白いと?

 この「古道顔色を照らし」の元ネタは、結構悲壮な状況で読まれていて、土室に幽囚せられるや、とあるから地下牢の本当に穴倉みたいなところに入れられて、真っ暗な中で何か白いものでも見つけてマルキ・ド・サドみたいに紙に顔をひっつけて書いたんじゃないかと思うと、とても正気歌ではないという感じがする。

梅田雲浜


朗吟詩集

 生死安んぞ論ずるに足らん、などと言っているので、正に壮絶な詩だ。昔からの正義の道と水仙の白さでは明らかに釣り合わないような感じがある。ここは理屈では覆いきれない。しかしまあ風の吹く軒下で本を読んでいたら急に正義の道が開ける理屈もなし、そこは土室に幽囚せられてさえ、という無理なところからでも古人に通じられたわけだから、水仙の白さでも良しとしようか。

 それにしても土室に幽囚せられて「天地正気あり」と詠める気迫が凄いなと感心したところで今日はこれまで。

 凄い人がいたものだ。


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