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「ふーん」の近代文学⑮ 文学の神様もいた

 志賀直哉が「小説の神様」で、後に横光利一が「小説の神様」になり、横光の影が薄れて志賀直哉が再び「小説の神様」として認知されるようになったという話を書いた。

 ところで「文学の神様」というものもいて、この「小説の神様」との関係はややこしい。


童蒙学びの近道 炭谷伝次郎 編駸々堂 1902年

 まず「学問の神様」こと天神様、菅原道真が「学問の神様」ではなく「文学の神様」と呼ばれることがあった。


聖徳太子伝 真能義彦 著顕道書院 1916年

 しかしここにまた横光利一が出てきて「文学の神様」と呼ばれてしまうのだ。

現代新進俳句集 昭和12年版 艸書房新進俳句集輯纂所 編艸書房 1937年

例へば「純文學の神樣」と云ふ綽名が、文學靑年達の安價なロマンティシズムの對象となつてゐる一人の作家に與へられてゐると云ふユーモラスな現象と同じやうな事情が、

現代日本の芸術 板垣鷹穂 著信正社 1937年

 ここではそれが誰とは言われていないが、言われるまでもなくこれは横光利一のことであろう。

學の神樣は次第に純文學者だけの流行神となり、一幕見の客だけの少女的神經を痲痺させるに役立つだけである。

事變で上海から內地へ引きあげてゐたダンサーは、なつかしの故國のこせこせした生活が居づらく、一日も早く上海に歸りたいとわめいてゐたが、文學の神樣は巴里に滯在して日本戀しのホームシツクに惱まされたのである。

新しき教育への出発 上田庄三郎 著啓文社 1938年

 これも誰とは書かれていない。

 書かれてはいないがどうも横光利一である。書かれていないのにどうして横光利一だと決めつけるのかと云えば、どうもほかに思い当たらないからである。

かういふ俗惡、無思想な、藝のない退屈千萬な讀み物が純文學の本當の物だと思はれ、文學の神樣などと云はれ、なるほどこれだつたら、一應文章のi修練だけで、マネができる。


欲望について 坂口安吾 著白桃書房 1947年

 こうして安吾に名指しされる「文学の神様」は志賀直哉である。ちなみにこの本の中で安吾は谷崎潤一郎や佐藤春夫、芥川龍之介には言及するが横光には言及していない。

先般の新聞紙上で横光利一氏が今年の傑作は通俗小説の中から現れるだろうというようなことを言われているが、これは上述の通俗性の本質をはきちがえた見解ではあるまいか。

(坂口安吾『――「文芸」の作品批評に関聯して――』)

 などと書いていたのは昭和十年三月。

横光氏の作品が西洋臭いやうに言はれてゐても、なかなかさうではないやうです。たとへば西洋臭さうな「悪魔」をとりあげてみても、まづ主人公が窓ぎわで顔を洗つてヒョッと顔をあげると前の二階に女がこつちを見てゐる、ちよつとバタ臭い場面のやうでゐて、その実この情景のあまりにも生き生きしてゐるのに驚いた私は、これが最も日本的であるからだといふ一つの考へに思ひ至つたのです。

(坂口安吾『日本人に就て ――中島健蔵氏へ質問――』)

 これも昭和十年。

これと全く同じ意味の空虚な悪戦苦闘をしている人に横光利一があり、彼の文学的懊悩だの知性だのというものは、距離をごまかす苦悩であり、もしくは距離の空虚が描きだす幻影的自我の苦悩であって、彼には小説と重なり合った自我がなく、従って真実の自我の血肉のこもった苦悩がない。

(坂口安吾『デカダン文学論』)

 この初出は昭和二十一年十月。その後横光には言及していないのではなかろうか。

 彼は戦争中、右翼の暴力団に襲撃されてノビたことがあった筈だ。
 戦争中、影山某、三浦某と云って、根は暴力団の親分だが、自分で小説を書き始めて、作家の言論に暴力を以て圧迫を加えた。文学者の戦犯とは、この連中以外には有り得ない。
 花田清輝はこの連中の作品に遠慮なく批評を加えて、襲撃されて、ノビたのである。このノビた記録を「現代文学」へ書いたものは抱腹絶倒の名文章で、たとえばKなどという評論家が影山に叱られてペコペコと言訳の文章を「文学界」だかに書いていたのに比べると、先ず第一に思想自体を生きている作家精神の位が違う。その次に教養が高すぎ、又その上に困ったことに、文章が巧すぎる。つまり俗に通じる世界が稀薄なのである。
 だが、これからは日本も変る。ケチな日本精神でなしに、世界の中の日本に生れ育つには、花田清輝などが埋もれているようでは話にならない。
(「新小説」昭和22年1月1日)

(坂口安吾『花田清輝論』)

 こんな『花田清輝論』をみるとその理由が解らないでもないような気がして来る。

 そして思う。「文学の神様」などが埋もれているようでは話にならない。

[余談]

 国立国会図書館デジタルライブラリーでは「花田清輝」は蔵書目録の中にしかない。……つまり、処分されたか。

 これでいいのか?

 デジタルコレクションでも作品そのものは見当たらない。

 これでいいのか?

 館内限定が多いな。

 これでいいのか?

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