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罰するだけの如来様? 芥川龍之介の『尾形了斎覚え書』をどう読むか②


クリックして買う。話はそれからだ。

 昨日は何故伴天連に助けを求めず医者の所に来たのかというあたりについて書いた。『邪宗門』の摩利信之法師のような念力は伴天連にはないのかあるのか。そもそもこの切支丹はどういう種類のものなのか。そのあたりが解らないから引っかかるという意味だ。

 この引っかかるということをこれまでずーっと何千回か書いてきた。それはつまり「流さない」ということだ。Audibleで『黄色い家』を聴いた人の感想を読んだら「きみこさん」「はな」と平仮名だった。あらためて、あ、もうAudibleでは言葉は音なんだ、文字じゃないんだ、と引っかかった。つまり「アルマ次郎」が「あるまじろう」になってしまって、ディスレクシアとかカナモジカイなんかは大喜びなのだ、と気が付いた。

 しかしそういうことになると文字の並びの美しさとか、同音異義語とか、そういうものが全部なくなってしまうわけだ。よくカンガエタラあるはずもない抑揚が付いていたりして。

 川上未映子さんと村上春樹さんはこの間ペアで朗読会をやっていたから、むしろ聞かせるということに積極的な印象がある。しかしおそらくそれは読書とは違うよね。

 と、話はそれたが、読書とAudibleはイエス・キリストの直接指導とカソリックくらい違うよね、と昨日思った。イエス・キリストなら里の病気なんてすぐに治してくれる筈だから。子供の病気も治せない宗教なんてものは何をどう信じればいいのか解らない。

 翌九日は、ひき明け方より大雨にて、村内一時は人通も絶え候所、卯時ばかりに、篠、傘をも差さず、濡鼠の如くなりて、私宅へ参り、又々検脈致し呉れ候様、頼み入り候間、私申し候は、「長袖ながら、二言は御座無く候。然れば、娘御の命か、泥烏須如来か、何れか一つ御棄てなさるる分別肝要と存じ候。」斯様申し聞け候へば、篠、此度は狂気の如く相成り、私前に再三額かづき又は手を合せて拝みなど致し候うて、「仰せ千万御尤もに候。なれども、切支丹宗門の教にて、一度ころび候上は、私魂躯とも、生々世々亡び申す可く候。何卒、私心根を不憫と思召され、此儀のみは、御容赦下され度候。」など掻き口説き咽び入り候。

(芥川龍之介『尾形了斎覚え書』)

※長袖ながら……長袖とは武士に対して、公家・医師・神主・僧などのこと、ここでは「医者ではあるけれども」という程度の意味。

 篠はまた脈を診てくれと頼みに来たと。そして尾形了斎は「娘御の命か、泥烏須如来か、何れか一つ御棄てなさるる分別肝要と存じ候」とかなりきついことを言っている。

 しかしこの教えはイスラム教並みに厳しいようだ。「切支丹宗門の教にて、一度ころび候上は、私魂躯とも、生々世々亡び申す可く候」とは棄教を絶対に認めない宗教だということだ。阿含宗でもそこまで厳しくはないから、まさしくこの切支丹宗門はかなり面倒臭い教えのようだ。しかも娘の病気を治してくれるわけでもない。

 なんのメリットがあるの?

 邪宗門の宗徒とは申しながら、親心に二に無き体相見え、多少とも哀れには存じ候へども、私情を以て、公道を廃す可べからざるの道理に候へば、如何様いかやう申し候うても、ころび候上ならでは、検脈叶ひ難き旨、申し張り候所、篠、何とも申し様無き顔を致し、少時く私顔を見つめ居り候が、突然涙をはらはらと落し、私足下に手をつき候うて、何やら蚊の様なる声にて申し候へども、折からの大雨の音にて、確と聞き取れ申さず、再三聞き直し候上、漸く、然らば詮無く候へば、ころび候可き趣、判然致し候。なれどもころび候実証無之これなく候へば、右証明を立つ可き旨、申し聞け候所、篠、無言の儘、懐中より、彼かのくるすを取り出し、玄関式台上へ差し置き候うて、静に三度まで踏み候。

(芥川龍之介『尾形了斎覚え書』)

 それでまあ、仕方なくころんで、「くるす」を三度踏んだと。しかしまあ、そもそも篠が何故この切支丹宗門を信仰するに至ったのかということがわからないし、信仰の深さも見えないので、その「ころぶ」という大事件が今一つ重くは感じられないのだなあ。

 其節は格別取乱したる気色も無之、涙も既に乾きし如く思はれ候へども、足下のくるすを眺め候眼の中、何となく熱病人の様にて、私方下男など、皆々気味悪しく思ひし由に御座候。

(芥川龍之介『尾形了斎覚え書』)

 そしてよくよく考えたらここまで伴天連さえ姿を見せているわけでもなく、篠という後家さんが勝手に切支丹宗門を語っているだけで、なんというか「勝手に困っている」感じがなくもない。

 やはりそもそも何故この切支丹宗門を信仰するに至ったのかというところの原因なりきっかけの深刻さがないと「勝手に困っている」感じしかないんだな。それと「伴天連に何とかしてもらいなよ」とも言いたくなる。
 その点ヨガなんかは結構ちょっとした不調は治してしまうし、納得感があるんだな。

 扨、私申し条も相立ち候へば、即刻下男に薬籠を担はせ、大雨の中を、篠しの同道にて、同人宅へ参り候所、至極手狭なる部屋に、里独り、南を枕にして打臥し居り候。尤も身熱烈しく候へば、殆ど正気無之体に相見え、いたいけなる手にて繰返し、繰返し、空に十字を描き候うては、頻りにはるれやと申す語を、現の如く口走り、其都度嬉しげに、微笑み居り候。右、はるれやと申し候は、切支丹宗門の念仏にて、宗門仏に讃頌を捧ぐる儀に御座候由、篠、其節枕辺にて、泣く泣く申し聞かし候。依つて、早速検脈致し候へば、傷寒の病に紛れ無く、且は手遅れの儀も有之、今日中にも、存命覚束なかる可きやに見立て候間、詮方無く其旨、篠へ申し聞け候所、同人又々狂気の如く相成り、「私ころび候仔細は、娘の命助け度き一念よりに御座候。然るを落命致させては、其甲斐、万が一にも無之かる可く候。何卒泥烏須如来に背き奉り候私心苦しさを御汲み分け下され、娘一命、如何にもして、御取り留め下され度候。」と申し、私のみならず、私下男足下にも、手をつき候うて、頻りに頼み入り候へども、人力にては如何とも致し難き儀に候へば、心得違ひ致さざる様、呉れ呉れも、申し諭さとし、煎薬三貼差し置き候上、折からの雨止みを幸ひ、立ち帰らんと致し候所、篠、私袂にすがりつき候うて離れ申さず、何やら申さんとする気色にて、唇を動かし候へども、一言も申し果てざる中に、見る見る面色変り、忽ち、其場に悶絶致し候

(芥川龍之介『尾形了斎覚え書』)

①何故芥川は切支丹ものを書き続けたのか。

②最後にイエス・キリスト個人について批判したのは何故か。

 さてここで切支丹ものにおける根本的な問いに立ち返ろう。

 まず芥川は「この切支丹という素材は面白い」と考えていたというところまでは確かだろう。切支丹は小説になると考えた。しかし芥川が切支丹をどう見ていたかということははなはだ謎である。
 例えば一応クリスチャンということになっている遠藤周作の『沈黙』において踏絵は悲壮な覚悟で行われ、なおかつそこに殉教者イエス・キリストの「真の教え」が見えるというドラマが組み立てられていた。

 切支丹側に立ち、キリスト教を完全擁護する立場が貫かれた。

 比較してみるまでもなく、芥川は果たしてどちらの立場なのか、切支丹の敵なのか味方なのか、まずその点が判然としない。芥川自身は「自分はキリスト教徒にはなれない」という立場だったはずだ。

 例えば『煙草と悪魔』において切支丹は悪魔をだますずるい人間であり、結果的に日本に煙草を蔓延させた犯人でもある。『じゅりあの・吉助』など、かなり邪な動機で信仰が始まっている。『おしの』は「エリ、エリ、ラマサバクタニ、――これを解けばわが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや?……」というジェズス・キリストの言い分を「臆病者」と切り捨てる話である。どうもキリスト教徒の味方ではない。

 一方『奉教人の死』など一応殉教者寄りの作品もなくはない。その立ち位置は一定ではないのだ。いわば自由、好き勝手にやっている。
 

 たとえば『さまよえる猶太人』の中のイエス・キリストはかなり恐ろしい。

 そしてこの場面はどうか。娘はもう手遅れ。早々に引き上げようとする尾形了斎の「袂」に縋りつく篠。ここで先ほどの「長袖ながら」のふりが効いてくる。これがノースリーブだと縋りつけない。

 そして篠は悶絶。ということは娘の病気さえ救えなかった泥烏須如来がころんだ罰に篠の命を取りに来たということか。それは全然フェアじゃないな。それでいいのか、泥烏須如来! なんとかしろよ泥烏須如来! と思わせるように芥川は書いているな、と思ったところで今日はここまで。

[余談]

 ほんまやで。

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