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夏目漱石と「中性」

 夏目漱石の虚子宛ての手紙に、ちょっと気になる文句が出て來る。

 次に内容と全く独立した。と云うより内容のない芸術がありますが、あれは私にも少々分る。鷺娘がむやみに踊ったり、それから吉原仲の町へ男性、中性、女性の三性が出て来て各々特色を発揮する運動をやったりするのはいいですね。運動術としては男性が一番旨いんだそうですが、私はあの女性が好きだ、好い恰好をしているじゃありませんか。それに色彩が好い。
 色彩は私には大変な影響を及ぼします。太功記の色彩などははなはだ不調和極まって見えます。加藤清正が金釦のシャツを着ていましたが、おかしかったですよ。光秀のうちは長屋ですな。あの中にあんな綺麗な着物を着た御嫁さんなんかがいるんだから、もったいない。光秀はなぜ百姓みたように竹槍を製造するんですか。
 木更津汐干の場の色彩はごちゃごちゃして一見厭になりました。御成街道にペンキ屋の長い看板があるから見て、御覧なさい。
 楠一族の色彩ははなはだよろしい。第一調和しているようです。正成の細君は品があってよござんす、あの子も好い。みんな好い色だ。
 私の厭なところと、好きなところを性質から区別して並べて御覧に入れました。これで私が芝居を見ている時の順慶流の気持が少し説明ができたつもりですが、まだこのほかにもなかなかあります。それは他日御面会の節に譲ります。不折は男性、女性、中性を見ずに帰りましたね。不折は奴的の画が好きなんだろうと思います。凡鳥君によろしく。以上。
六月十二日

 中性役者というものが昔から存在していたかどうか調べてみたがどうも見つからない。少なくとも「次世代デジタルライブラリー」の中にはなかったので、ここで漱石が云う「中性」の意味は定かではない。「青空文庫」の中にも「中性役者」はない。
 高村光太郎が支那を経て日本に渡来した超人間的霊体の顕現としての仏像が、性の観念を断絶した中性として扱われたと述べ、宮本百合子がミーダという暴力、呪咀を司る中性の神を登場させるほかは、全て性別ではなく「中性的」という性質として現れる。そういう意味では明らかに性別として書かれているように見える「男性、中性、女性の三性」という書きっぷりはかなり奇妙なものだ。そこで吉原仲の町の中性とは一体なんだということになるが、これは陰間ではないかとまずは考えられる。あるいは女形のことではないかと考えられる。いわゆる「オカマ」的な意味合いでの使用であった可能性が高い。

 ところが漱石の語彙に雌雄同体や半陰半陽はない。もっとも知識としてそういうものが存在することは知っていただろうとは思う。英語の教師であった漱石が、マスキュリン・ジェンダー、フェミニン・ジェンダー、コモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの区別が解らないわけはない。英語には四つの性がある。しかしコモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの概念が人間関係の理屈の中には現れない。あくまで男と女があるばかりである。

 男が女を得て成仏する通りに、女も男を得て成仏する。しかしそれは結婚前の善男善女に限られた真理である。一度夫婦関係が成立するや否や、真理は急に寝返りを打って、今までとは正反対の事実を我々の眼の前に突きつける。すなわち男は女から離れなければ成仏できなくなる。女も男から離れなければ成仏し悪くなる。今までの牽引力がたちまち反撥性に変化する。そうして、昔から云い習わして来た通り、男はやっぱり男同志、女はどうしても女同志という諺を永久に認めたくなる。つまり人間が陰陽和合の実を挙げるのは、やがて来きたるべき陰陽不和の理を悟るために過ぎない。……(夏目漱石『明暗』)

 仮に人間に「男性、中性、女性の三性」という中性性を認めるならば、この叔父の軽口の中にひょいと中間なり超越者なりがまぎれ込んでもよさそうなものだが、漱石が描くのは飽くまで男と女なのである。中性性はない。

「墨汁一滴」だか「病牀六尺」だかどちらだかはつきり覚えてゐません。しかし子規はどちらかの中に夏目先生と散歩に出たら、先生の稲を知らないのに驚いたと云ふことを書いてゐます。或時この稲の話を夏目先生の前へ持ち出すと、先生は「なに、稲は知つてゐた」と云ふのです。では子規の書いたことは嘘だつたのですかと反問すると「あれも嘘ぢやないがね」と云ふのです。知らなかつたと云ふのもほんたうなら、知つてゐたと云ふのもほんたうと云ふのはどうも少し可笑をかしいでせう。が、先生自身の説明によると、「僕も稲から米のとれる位のことはとうの昔に知つてゐたさ。それから田圃に生える稲も度々見たことはあるのだがね。唯その田圃に生えてゐる稲は米のとれる稲だと云ふことを発見することが出来なかつたのだ。つまり頭の中にある稲と眼の前にある稲との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかつたのだがね。だから正岡の書いたことは一概に嘘とも云はなければ、一概にとも云はれないさ」!(芥川龍之介『正岡子規』)

 芥川龍之介はこのように書き残している。実際『坊っちゃん』には「ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう」という奇妙な文句があり、

 古川の持っている田圃の井戸を埋めて尻を持ち込まれた事もある。太い孟宗の節を抜いて、深く埋めた中から水が湧き出て、そこいらのにみずがかかる仕掛しかけであった。その時分はどんな仕掛か知らぬから、石や棒ちぎれをぎゅうぎゅう井戸の中へ挿さし込んで、水が出なくなったのを見届けて、うちへ帰ってを食っていたら、古川が真赤になって怒鳴り込んで来た。たしか罰金を出して済んだようである。(夏目漱石『坊っちゃん』)

 ……と田圃と稲と飯の関係が解らぬような悪戯が描かれる。コモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの概念がありながら、それが人間関係の実地に現れないのは、頭の中にある稲と眼の前にある稲との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかったように、頭の中にあるコモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの概念と眼の前にある人間との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかったからなのであろうか。





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