夏目漱石の虚子宛ての手紙に、ちょっと気になる文句が出て來る。
中性役者というものが昔から存在していたかどうか調べてみたがどうも見つからない。少なくとも「次世代デジタルライブラリー」の中にはなかったので、ここで漱石が云う「中性」の意味は定かではない。「青空文庫」の中にも「中性役者」はない。
高村光太郎が支那を経て日本に渡来した超人間的霊体の顕現としての仏像が、性の観念を断絶した中性として扱われたと述べ、宮本百合子がミーダという暴力、呪咀を司る中性の神を登場させるほかは、全て性別ではなく「中性的」という性質として現れる。そういう意味では明らかに性別として書かれているように見える「男性、中性、女性の三性」という書きっぷりはかなり奇妙なものだ。そこで吉原仲の町の中性とは一体なんだということになるが、これは陰間ではないかとまずは考えられる。あるいは女形のことではないかと考えられる。いわゆる「オカマ」的な意味合いでの使用であった可能性が高い。
ところが漱石の語彙に雌雄同体や半陰半陽はない。もっとも知識としてそういうものが存在することは知っていただろうとは思う。英語の教師であった漱石が、マスキュリン・ジェンダー、フェミニン・ジェンダー、コモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの区別が解らないわけはない。英語には四つの性がある。しかしコモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの概念が人間関係の理屈の中には現れない。あくまで男と女があるばかりである。
仮に人間に「男性、中性、女性の三性」という中性性を認めるならば、この叔父の軽口の中にひょいと中間なり超越者なりがまぎれ込んでもよさそうなものだが、漱石が描くのは飽くまで男と女なのである。中性性はない。
芥川龍之介はこのように書き残している。実際『坊っちゃん』には「ゴルキが露西亜の文学者で、丸木が芝の写真師で、米のなる木が命の親だろう」という奇妙な文句があり、
……と田圃と稲と飯の関係が解らぬような悪戯が描かれる。コモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの概念がありながら、それが人間関係の実地に現れないのは、頭の中にある稲と眼の前にある稲との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかったように、頭の中にあるコモン・ジェンター、ニュートラル・ジェンダーの概念と眼の前にある人間との二つをアイデンテイフアイすることが出来なかったからなのであろうか。