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誰にも間違いはある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む55

軍人勅諭とは何か

 それはむしろ「『豊饒の海』論」の瑕疵であるのだが、『英霊の声』のこんなところを再読するとやはり宮城に尻を向ける飯沼勲の不敬がはっきり見える。

 われらは夢みた。距離はいつも夢みさせる。いかなる僻地、北溟南海の果てに死すとも、われらは必ず陛下の御馬前で死ぬのである。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊は、現人神たる天皇陛下の馬前で死ぬことを願っていた。「現人神」に尻を向ける飯沼勲とは大違いである。

 飯沼勲の天皇は「現人神」ではなく日輪に変わっていた。この「変化」というのはニ・二六事件で処刑された将校たちの霊にはまだ見られないものである。乗り換える前に恨み言を言っている。

 その根拠は軍人勅諭である。

 平野啓一郎はこの軍人勅諭を根拠として「彼らの恋を受け容れねばならない」とする理屈に対して、倒錯の論理、原因と結果の故意の混同が認められるとしている。

 しかし果たしてそうであろうか。 

軍人勅諭謹解

 三島由紀夫が「恋」と書いているからわかりにくいが、朕に親しみを持てと確かに軍人勅諭には書いてあり、これが命令の形式になっている。「恋」は本来自由だがこれは強制された「恋」なのだ。

 考えてみよう。「俺を好きにならないか」ではなく「朕に親しみを持て」なのだ。
 そして天子が文武の大権を掌握するというアイデアは天皇親政そのものである。つまり軍人勅諭を馬鹿正直に信じれば、薩長政府なんてものがそもそもおかしいがそれはさておき、議会政治が天皇の大権を蹂躙するようならば必ず修正しなくてはならないことになる。

 朕と憂いを共にせよ、なんだから天皇陛下は今何をお思いだろうかと常に陛下のことを考えなくてはならない。勿論軍人勅諭には朕に恋せよとは書いていないが書いているも同じである。


皇軍は亡びたか

 さればわれらの目に、はるか陛下は、醜き怪獣どもに幽閉されておはします。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 これは事実であろうか。それは何とも言えないところだ。しかしニ・二六事件で処刑された将校たちの霊には生々しく具体的な歴史認識が混ざる。

 このとき大元帥陛下の率ゐたまふ皇軍は亡び、このときわが皇国の大義は崩れた。赤誠の士が叛徒となりし日、漢意のナチスかぶれの軍閥は、さへぎるもののない戦争への道をひらいた。 

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 この天皇の戦争責任をマイルドにしてしまうような「漢意のナチスかぶれの軍閥」という悪者の取り出し方は全然皮肉に感じられず、まるで三島由紀夫自身の歴史認識でもあるかのようだ。これが太平洋戦争、第二次世界大戦、大東亜戦争について語っているところであれば、ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊に語らせたとはいえ、いささか単純すぎる歴史認識である。

 平野は「12  「人として」の天皇」でこの個所を引用しながら、この歴史認識には触れない。

 しかしここで三島由紀夫が天皇の銃粋さを守るためにか、皇軍ではなく軍閥の軍隊を戦争に向かわせたとしていることは、この後現れる特攻隊員の霊にとっては大問題である。ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊は、特攻隊員の霊に対して、形式的には、お前らは皇軍でもなんでもない。軍閥の犬だと言っている訳である。小説として『英霊の声』を読んでみる時、この問題は果たしてスルーし得るものであろうか。

 あるいはこの対立構造を理解しないで『英霊の声』を論じることがどのようにして可能だと考えられるであろうか。

 無論特攻隊員の霊はお前らは皇軍でもなんでもない。軍閥の犬だと言われていることに気がつかない。彼らのあいだでの話し合いというものはないからだ。ただこの「本当の皇軍」みたいな話は、「真の日本」というような形で、三島由紀夫作品の中では繰り返しむなしく問われてきたものではなかっただろうか。

 事実としては皇軍といってみてもそれは所詮かき集められた農家の次男三男の集まりであり、その頂点には名目としての天皇陛下元帥閣下がいるていなっていても、現実的には矢張りどこの可馬の骨の次男三男の中将が指揮するわけだ。

 この現実を特攻隊員の霊は矢張り無視している。しかし明らかに天皇との距離感が違う。「命を君国に献げた」といい、「陛下の御馬前に討死する誉れ日のために」といい、「やすやすと、天皇陛下と一体になるであらう」と言いながら、軍閥の兵隊であることには気がついていない。

 しかし一方では神のみがこの非合理な死を悲劇にしてくれるのであって、そうでなければつまり天皇が神でなければ、この死が愚かな犠牲に過ぎないことには気がついている。
 もし三島由紀夫が、そしてニ・二六事件で処刑された将校たちの霊が、自ら吐いた「皇軍は亡んだ」というロジックに気がついていなかったとすれば、ここは天皇陛下の裏切りだけを見ればいいことになるが、もしも「皇軍は亡んでいた」という前提に立つと、開戦から人間宣言まで、天皇の大権というものは蔽われていたという理屈になる。

 たとえそれが間違いであると知ってはいても、死んだ者のために、飽くまでも自分は神であると言い続けるべきではなかったか? その詩的な観念を守り続けるべきではなかったか?
 ——これが、特攻隊員の霊たちが言わんとするところであり、更には、作者自身の言わんとするところである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 しかし事はそう単純だろうか。 

 われらは神界から逐一見守つてゐたが、この『人間宣言』には、明らかに天皇御自身の御意志が含まれてゐた。

(三島由紀夫『英霊の声』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 三島由紀夫は冷静である。「含まれてゐた」と書いている。担がれていたとも担がれることを止めたとも書いてはいない。そのように利用されながら天皇制が現に続いている現実の中で、わざわさ帰神の会などという儀式で、神々に語らせたのは、昭和天皇に対して道義を問うためのものでは断じてあり得ない。そうであればエッセイで批判すれば済むことだ。

 帰神の会の儀式、そしてその思想的背景である鎮魂帰神の原理こそが英霊の声を出まかせから救っているのであって、三島由紀夫が「特攻隊員の霊たちはきっとこんなふうに言いたいんだと僕は思うよ」と言ってしまってもそんなものはどこかのインチキなたくさん本を出すところの霊言と同じである。

 もしも「皇軍は亡んでいた」という前提に立つと、開戦から人間宣言まで、天皇の大権というものは蔽われていたという理屈になると書いた。実際そのように思っていないのに、三島由紀夫はそんな理屈をいつのまにか書いてしまっていたのではないか。神がかりに。

 実は『霊学筌蹄』における「カミ」は本来現在の普通の人間ではない。

决して普通の人間と變らない上古の偉人を指すのでもなく、又た精神作用で化出した幻化的のものでもない。今日の人間とは明かに異るもので又た如實に現存し給ふものである。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 この『霊学筌蹄』だけの理屈で言えば、

 さて日本に於ける神武天皇以前の年代は上記などの傳へもあるが、神仙界に傳はる年代記によると、天降天皇は大歲元年(辛酉)から辛卯に至て千五百三十一年御在位、次に彥穂々出見尊は翌壬辰年から辛未に至る五百八十年御在位……。

霊学筌蹄 友清歓真 著天行居 1921年

 天皇にはこうした超人的な性質がなくてはならない。そうでないとしたら、鎮魂帰神の原理など全部出鱈目であり、ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊の言い分も特攻隊の霊の言い分も全部出鱈目である。その際どい所に『英霊の声』は寄って立っている。
 神霊から借金できない人は『英霊の声』を真面目に受け取ってはいけないのだ。
 三島由紀夫はすべての言葉が無に帰すようなギリギリのところに『英霊の声』を置いている。川崎君の死が天皇の身代わりとしての死であれば、天皇の罪は清算されたことになるかもしれないし、「創作ノート」の意図を無視して、不敬の罪に与えられた神罰だと解すれば、実は天皇はカミであったということになる。

 もし特攻隊の霊が神界から逐一見守つてゐたならば、「十分長生きすることを望んでいる」と天皇が命乞いをしたことも知っていたのだろう。

 しかし『英霊の声』の中にはその指摘がない。つまり鎮魂帰神の原理など全部出鱈目であり、ニ・二六事件で処刑された将校たちの霊の言い分も特攻隊の霊の言い分も全部出鱈目である?

 三島由紀夫の小説というのは様々なピースを不安定なバランスで積み上げていって、ところどころにおかしな仕掛けがしてあって、角度を変えて眺めると全く別様に見えるからくりを持ってゐる。「皇軍は亡んでいた」も「帰神の会の儀式」もそういうおかしな仕掛けである。まあ一番おかしな仕掛けが天皇ということにはなる。千五百年生きる天皇が出鱈目なら全部出鱈目になる。

 まあ、これはそういう出鱈目な小説である。

 何故「李」?


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