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芥川龍之介の『手紙』をどう読むか③ そんなしかけがあったとは
結局何が言いたいんだろう?
この『手紙』をそのまま手紙として受け取ったとしたら、やはりこれはわけのわからないものでしかなく、その意味は掴みかねるものなのではなかろうか。
たまたま偶然にその手紙の受取手がS君かK君かM子さんの知り合いでもない限り、M子さんが二股からお坊ちゃんのS君を選び、K君は失恋するという隠れたドラマがあったとしても、そのこと自体は殆ど意味を持たない。あるいはクロポトキンも木枕もどうでもいい。手紙には猿とサッポロビールを飲んだとか、そういう面白い話題が書かれるべきであり、『手紙』に書かれているエピソードはどれも弱い。
だからこれは小説に過ぎなくて、あなたに伝えたいことなど特に何もなかったのだと一応は考えてみて、どうにも納得がいかないのでこれがM子さんとK君とS君の話ではなく、F子さんとK君とM君の話なら少しは面白いのかなと仮定してみる。つまり筆子を巡る久米と松岡の話を今更のように思いだしてみても下世話なだけで少しも面白くないのだと気が付く。
ならば『三つの窓』のK中尉と鼠を輸入するS……。これもうまくはいかない。
完全にお手上げだと気が付くまでにそんなに長い時間はかからない筈だ。この『手紙』には深い教訓もなければ、強烈なメッセージもない。前述したような微かなドラマのけすらいがあるだけで、筋らしい筋はない。
よく眠れる「僕」が女連れでなく、書くことに苦しまないことが『歯車』との対比で面白く、初秋という時期の設定が生なましさを回避し、「大久保武蔵鐙」を読んでいることが、例えば「社会主義早わかり」や「佐橋甚五郎」を読む『あばばばば』よりは惚け過ぎてはいない感じがする。それは丁度夏目漱石の『門』の「ポッケット論語」程度に惚けてはいるが、揶揄われもしない程度に澄ましてもいる。
何かに執着していない、まとまった感じもしない、むしろ散漫でいい加減な感じというものが何かメッセージを持ちうるとしたら、例えば二人の狂人というものが、
・何も口を利きかずに手風琴ばかり弾く
・(夜中に)いきなり廊下へ駈け出したりなすった
……といった「騒がしさ」として表現されていることを確認すべきかもしれない。「僕」は「大久保武蔵鐙」を読み、トランプや将棊で暇をつぶして昼寝をする。ところどころあやしいところがないではないものの、二人の狂人とは異なった性質であることを強調している。さして何事かに執着する訳でもなく、不安の影もなく、静かである。
この妙に澄み渡った、小さい初秋の風景にいつにない静かさを感じました。………
これが『手紙』のテイストで、メッセージだ。
そのことから『歯車』も『或阿呆の一生』も小説なのだ、というメッセージを受け止めることは、そう無理がある解釈ではあるまい。「――僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。」と書いてなお、芥川は『手紙』を書いたのであり、太宰治は「ただ、一さいは過ぎて行きます」と書いてなお『グッド・バイ』を書いたのだ。
勿論『手紙』は『歯車』や『或阿呆の一生』の添え物だと言いたいわけではない。後期芥川作品が暗い影に覆われているばかりではなく、そうしたものを相対化するような別のテイストの作品も確かに書かれているのだということを確認したいのだ。
太宰の『人間失格』にもよく読むとジョークが挟まっており、『グッド・バイ』など最初から顔だけ美人で十貫を楽に背負うかつぎ屋を使って女を清算していくドタバタ喜劇なのだ。そこに「おぼれる者のワラ」と、どうにもできすぎた言葉が挟まっているのだから天祐神助ありと感ずるのだろう。
[付記]
どうかお子さんたちにもよろしく言って下さい。
奥さんはいないの?
ふつうそこは「お子さんたちにも」ではなく「奥さんにも」だろう。
いやいやいや。この手紙の受取手は女?
よろしくって、言うほど子供たちは大きいの?
そもそも子供たちとも知り合いなの?
これは芥川が受け取り側に回った手紙?
……とあれこれ考えさせられる。芥川作品はいちいち細工が細かい。
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