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何も隠されてはいない 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑲

 今の若い人が羨ましい。

 昔はこんな本はなかった。こんな本をたった六百四十円で読むことができる。

 誰が言い出したのか、昔からドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を読むという体験を経ると、世界の見え方が変わってくると言われている。なぜドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』なのかという問題はここでは論じない。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を「世界観を変容させる傑作のひとつ」に貶めるつもりもない。しかし夏目漱石の『こころ』を読む前後で、小説の読み方というものがまるで変ってくることも事実だ。世界の見え方はさして変わらないかもしれない。しかし小説の読み方は確実に変わる。

 夏目漱石の『こころ』を読むとマイナンバーの仕組みも解る。

 夏目漱石の『こころ』を読むと株主提案も解る。

 配当金も年間一千万円くらいは入ってくるようになる。

 それがたった六百四十円で可能なのだから恐ろしい。しかし

 こんな本には鰻のことしか書かれていない。人生は短い。本当にあっという間だ。できることなら一日も早く、

 この本を読んだ方がいい。読めばなぜもっと早く読まなかったのかと必ず後悔するだろう。
 ……と、ここまで書いているのに読まない人は置いて先に行くよ。

 結局そこには悪友にそそのかされて文学に巻き込まれてしまった男の行き当たりばったりの人生がある、と書いてしまえば残酷なものであろうか。これまで確認してきたように、芥川は海軍の士官になってみたいなどとぼんやり考えながら、英語か漢文の教師にでもなるのかなという選択肢を英文科に入ったことでさらに狭め、卒業時には失恋のこともあって、すっかり未来を見失っていた。大正五年の『鼻』から始まる芥川の作家生活はまだまだこれからのものであり、『戯作三昧』の時点ではまだ専業作家になるという覚悟すらなかった。
 非常に現実的な比較において、馬琴は芥川が自己投影する存在としては何もかも違いすぎた。

・老作家と新人作家
・専業作家と兼業作家
・長編作家と短編作家
・所帯持ちと独身

 しかし何故か馬琴の言葉の端々にはどうしても作家芥川の影がちらちらと見える。それは先にも書いたように『戯作三昧』の主人公が、芥川作品としては数少ない「作家」であるからだ。雌蜘蛛や下人にしても芥川の分身ではないものは基本的にはいないかもしれない。芥川は時にはお富にもなって、お股を開く恥辱を感じていたのかもしれない。ただ『戯作三昧』の主人公、曲亭馬琴程芥川龍之介という作家自身に違っているのに似ている主人公は珍しいのだ。

この点に於て、思想的に臆病だつた馬琴は、黙然として煙草をふかしながら、強ひて思量を、留守にしてゐる家族の方へ押し流さうとした。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 話が混線しないように流したこの「思想的に臆病だつた馬琴」というのを今一度ここで精査することは段取りミスではない。臆病とはどういうことか。それは昨日書いた通り、

「出で兼る」とは、それこそ一つの選択肢が選べないので現状に留まるという意味であり、川に留まるという意味になる。

 馬琴は思想的に憶病なので「出で兼る」状態にいたのである。その状態は「強ひて思量を、留守にしてゐる家族の方へ押し流さうとした」とある通り、非文学的状態である。

 そして浅草の観音様のお告げによって馬琴は再び「八犬伝」向かう。それはつまり、神来の興を得て進むその先には、「抒情なり叙景なり、僅に彼の作品の何行かを充たす丈の資格しかない」ものではないもの、「先王の道」の芸術的表現と彼の心情が芸術に与へようとする価値との一致した大胆な思想があると考えてよいだろう。焚書坑儒も改名主も恐れぬ大胆な思想が『南総里見八犬伝』としてまさに結実しようとしているのだ。

 しかしそこにはただストレートな表現のみがあるわけではない。

この他明清の文人墨客、水滸をいふ者多かれども、一人として彼作者の無量の隱微あるを悟れるなし。

南総里見八犬伝 3 曲亭馬琴 [著]||笹川種郎 校博文館 1930年


南総里見八犬伝 3 曲亭馬琴 [著]||笹川種郎 校博文館 1930年

 『南総里見八犬伝』にわざわざ添えられた「簡端附言」の「隱微」の仕掛けについて、芥川は敢えて書かない。

 乃木静子はなぜ殺されたのかと夏目漱石も森鴎外も書かない。それはあくまでも「隱微」だからだ。だから「隱微」に気が付かないまま死んでいくものもいるし、「つまらなかった。星一つ」とコメントするものもいる。


南総里見八犬伝 3 曲亭馬琴 [著]||笹川種郎 校博文館 1930年

 例えば川上未映子は、エピグラフで「目を閉じさえすればよい」とセリーヌの詩を引用しておきながら最後に目を見開かせる。

 おそらく花は処女である。花は植物の生殖器である。なのにセックスしない。本物の作家はそうした「隱微」をかなりの確率で駆使する。今日書いた漱石の句もそうだ。芋を洗う女はしゃがんでいる。膝をそろえてしゃがむ女はお武家さんの娘だ。お武家さんの女は芋を洗わない。つまり芋を洗う女の膝はそろっていない。しかし漱石は「山家」に逃げた。そこに視線を注ぎすぎると日本セクハラチェックセンターにXで晒されてしまうからだ。

 芥川は馬琴の「隱微」を書かなかった。ただ思想的には臆病で、「先王の道」の芸術的表現と彼の心情が芸術に与へようとする価値とが乖離していた馬琴を「八犬伝」に向かわせることによって、大胆な思想を仄めかした。そういうことが、

 この本を読むと解るようになる。読まないと解らない。

 証拠?

 これまで駄目だったんだから何もしなければ変わるわけはない。

 彼の耳には何時か、蟋蟀の声が聞えなくなつた。彼の眼にも、円行燈のかすかな光が、今は少しも苦にならない。筆は自ら勢を生じて、一気に紙の上を辷りはじめる。彼は神人と相搏つやうな態度で、殆ど必死に書きつづけた。
 頭の中の流は、丁度空を走る銀河のやうに、滾々として何処からか溢れて来る。彼はその凄い勢を恐れながら、自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合を気づかつた。さうして、緊く筆を握りながら、何度もかう自分に呼びかけた。
「根かぎり書きつづけろ。今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ。」

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 これは案外大切なことで、「今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ」というのがある程度本当だとしたら、また「今己が読んでいる事は、今でなければ読めない事かも知れないぞ」ともいえるのではなかろうか。

 人生は短いし、全ての事柄は一度しか起こらない。繰り返しはない。だから馬琴は必死だ。つまりあることを絶対に書かないことを意識しながら、そうではないことを書いている。

 しかし光の靄に似た流は、少しもその速力を緩めない。反つて目まぐるしい飛躍の中に、あらゆるものを溺らせながら、澎湃として彼を襲つて来る。彼は遂ひに全くその虜になつた。さうして一切を忘れながら、その流の方向に、嵐のやうな勢で筆を駆つた。
 この時彼の王者のやうな眼に映つてゐたものは、利害でもなければ、愛憎でもない。まして毀誉に煩はされる心などは、とうに眼底を払つて消えてしまつた。あるのは、唯不可思議な悦びである。或は恍惚たる悲壮の感激である。この感激を知らないものに、どうして戯作三昧の心境が味到されよう。どうして戯作者の厳かな魂が理解されよう。ここにこそ「人生」は、あらゆるその残滓を洗つて、まるで新しい鉱石のやうに、美しく作者の前に、輝いてゐるではないか。……

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 言われていますよ、みなさん。

 この不可思議な喜びを知らないものには戯作者の厳かな魂は理解できないんですって。「人生」が輝かないんですって。

 これはまさにそういうことだろう。「つまらなかった。星一つ」の人々が永遠にたどり着けない世界がある。しかしちょっとしたコツで近づくこともできる。わずか二年足らずの間に芥川龍之介は『鼻』『羅生門』『芋粥』などの傑作を立て続けに書いた。その執筆中、芥川は確かに不可思議な悦びを感じたことであろう。それは書くことの不安、誰にも届かないかもしれないという不安を打ち消す「うれぱみん」のようなものであるかもしれない。あるいはそれなくしては生きていけない動物的エネルギイを胸腺が返還したホルモン……。

 書くことの対価は売り上げでは決してない。

 そこまではいいだろう。しかしこの期に及んで、まるでライターズハイを知らないものには『戯作三昧』が理解できるはずもないと、単なる読者と言いうものに敢えてダメ出しが行われていないだろうか。

 ここにはまるで救いがない。ではさて、この先に救いはあるのだろうか。それはまだ誰にも解らない。一人として彼作者の無量の隱微あるを悟れるなしだからだ。それは『水滸伝』だけの話ではない。現に「芋洗ふ女」というわずか四文字の意味にさえ辿り着いていなかったならば、この先に待ち構えているものは、私が読む迄誰一人知りえないと言えるのではなかろうか。

 日々起きていることを直視せよ。


 三熱蕎麦?

抑も當時三熱蕎麥の如きは、地方人民皆其の利を知りしかども、獨り馬鈴薯に至りては、則ち山村解邑未だ之を知らざるものありき。

高野長英言行録
杉原三省 編内外出版協会 1908年

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