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小宮豊隆「『こゝろ』解說」・丁寧に読もう。


『こゝろ』解說

 『こゝろ』は先生の死に先だつこと二年、大正三年の四月二十日から八月十一日に亙つて、東西の『朝日新聞』に連載され、同じ年の十月岩波書店から菊版の單行本として出版された小說である。

 その單行本の表紙·見返し·扉·奥附·箱などの裝飾は、凡て先生自身の考案にかかるものであつた。『こゝろ』を書き出す前には先生は、今度、それそれに獨立した短篇を幾つか書いて見たいといふ、希望を持つてゐた。さうしてその短篇の幾つかを綜括するものとして、『こゝろ』といふ名前が選まれた。然し段段書き込んで行くうちに、きまつて豫定よりも遙に長いものになり勝な先生の小說は、此所でも同じやうな經過をとつて、その幾つかの短篇のの一つとして受胎された先生の遺書が、それだけで優に百十囘の新聞小說に廣がつて了つた。

 先生はそれで筆を擱いた。さうしてそれを元通りの『こゝろ』の名前で、單行本として出版した。勿論今日我我の所有する『こゝろ』は、先生の遺書のみから出來上がつてはゐない。其所にはそれそれ獨立の形式を具へた、「先生と私」と「兩親と私」と「先生と遺書」との、三つの短篇が含まつてゐる。

 然しこれらのものは、形式の上でこそそれそれ或纏まりが與へられてはゐるものの、實質の上では互に密接に關連し合つてゐる短篇である。强ひて言へに、初めの二つは、最後の「先生と遺書」の爲めにのみ存在してゐるのだとさへも言へる。

 從つて今日の『こゝろ』に纏まり上がつてゐる一一つの短篇は、『こゝろ』執筆以前の先生の頭の中にあつたそれとは、丸で違つた三つの短篇である。是は、執筆以前の先生の頭の中にあつた幾つかの短篇の內の一つの、先生の遺書の三つの分身であるに外ならない。

 執筆以前の先生の頭の中にあつた他の短篇がどういふものであつたかは然し、それを探り知るに必要な材料が些しも殘されてゐない以上、今日の我我には分からない。

 違つた名前の短篇の幾つかを繋げ合せてそれを一つの長篇に纏め上げるといふ形式を、先生は『彼岸過迄』から(ずつと以前に同じ形式を持つたものに『薙露行』がある、然し是は長篇ではなくて短篇であり、小說といふよりは寧ろ詩である)用ひ始め、それが『行人』を經て『こゝろ』に及んでゐる。

 自分の體驗を特定の相手の前に披瀝し悉す目的を持つた手紙が一篇の眼目をなすといふ形式を、先生は『行人』で先づ用ひて亦是を『こゝろ』にまで及ぼした。― 第一の形式は、さもなければひた押しに押して行かなくてはならない描寫の息を拔き、精力を要所要所に集中する事によつて、重要なものに委曲を悉す便宜を持つてゐる。

 一面から言へばまた其所には、題材を色んな立場から眺める事によつて、作品全體の上に寛ろぎと幅とを與へる利益もある。手紙の形式は、第三者ではなく第二者を相手に物言ふ形式である丈に、自分の腹の中にある事を一向きに思ひ切つてぶちまける事によつて、直接性を持つて讀者の心に肉薄する便宜を持つてゐる。先生の作品の中で最初にこの二つの形式を併せ用ひたものは、『こゝろ』の一年前に出來上がつた『行人』である。その意味では『こゝろ』は『行人』の形式を蹈襲したものであると言つて可い。

 然も『こゝろ』と『行人』とは、啻に形式のみならず、內容の上から言つても、互に密接に關連するものを持つてゐる。二つのものは、外見上の銳い對照にも拘はらず、此所では寧ろその外見上の銳い對照の故に、一つのものは他のものの自然の(或意味では必然の)繼續としての關係に於いて立つてゐる。

 『行人』なしに『こゝろ』は考へられないと迄は言はないとしても、『こゝろ』は『行人』の後に來る事によつて、先生の心の開展の跡を示す曲線を、一層なだらかなものにし、又一層リアルなものにする。

 もつと具體的に言へば、『行人』と『こゝろ』とを便りとして我我は、先生の「則天去私」の人生觀の胎生學的發展を、可也はつきりと覗いて見る事が出來るのである。

 『行人』の主人公は、誠を求めて誠に逢はず、愛を求めて愛に逢はず、然もそれらのものを確と握つてゐると意識するのでなければ、落ついてゐられない、人間として描き出される。自分は是程誠實であるのに、相手は自分に對して少しも誠實でない。自分は是程愛してゐるのに、相手は自分に對して少しもその愛を返さない。其所に『行人』の主人公の惱みと不安との源があり、さうしてその惱みと不安とは、この主人公を驅り立てて狂氣にまでも導かうとする。

 然も全篇を通じて、最後までこの主人公を支配するものは、高貴な誠實な愛情に充ちた自己を、何所までも肯定し切る心であ如何なる意味に於ても自分は惡くない、凡て他人が惡いとする心である。

 是と正反對に、『こゝろ』の主人公は、自分の醜惡を徹骨徹髓に甞め悉した人間として描かれる。この主人公は先づ世の中に愛想をつかした。次で自分の周圍に愛想をつかした。さうして最後に自分自身に愛想をつかした。『こゝろ』の主人公の孤獨は『行人』の主人公の場合と違つて、いくら外から暖めてもらへても、その心の奥に張つてゐる氷の塊は竟に溶ける事がないやうな、虛無的な絕望的な孤獨である。『行人』の主人公は狂氣になるかも知れない。然し何所までも自己を肯定する心が活いて行く限り、この主人公は決して、自ら自らの命を斷たうといふ氣にはならないに違ひない。然し『こゝろ』の主人公は、いくら誠實にその奥さんを愛してゐようとも、自分の心の上に自分の誠實をさへ信じる事が出來ない程の深手を負つてゐる以上、所詮生きんとする意志を奮ひ起す事の出來ないのは當り前である。

 『こゝろ』の主人公は自殺した。是程自己の醜惡を甞め悉す者は、假令肉體的には死なないまでも、少くとも精神的には、一度死ななければならない運命を脊負つてゐるのである。比喩的に物言ふ事が許されるならば、『行人』を書いて先生は一度狂氣になり、『こゝろ』を書いて先生は一度死んだのであつた。

 『行人』に於て先生は、自分の中にある自己肯定の心を、ぎりぎりの所まで押し詰めた。さうして先生は、自分を待つてゐる死か狂氣か宗教かの選擇の前に、その最後の「私」を乘り越した。『こゝろ』に於て先生は、逆に、自分の中にある自己否定の心を、ぎりぎりの所まで押し詰めた。さうして先生は、自分を待つてゐる死か宗教かの選擇の前に、「天」に歸する事によつて、自分の孤獨を救はうとした。

 再び比喩的に物言ふならば、『行人』と『こゝろ』とは、先生內面の大震災の、悲痛な報告書である。『行人』は先生が今迄に辛苦して建て上げた殿堂が、將に崩壞しようとする刹那の光景を報告するものであり、『こゝろ』はその崩壞直後の廢墟の光景を報告するものである(先生がこの廢墟の眞ん中に立つて、礎を置き柱を建て、更に新しい家を築いて行つた經路の記錄は、『道草』以後の作品を通して我我に提供される)。

 この意味に於て『こゝろ』は、一人の人間の心の記錄としても、また先生の內面生活の或殊相の記錄としても、『行人』と並んで、極めて貴重な文獻を形づくつてゐるものである事は爭はれない。(岩波文庫本『こゝろ』-二;九·一五)「こゝろ」解說

[出典]『漱石襍記』小宮豊隆 著小山書店 1935年

[付記]

 気が付いてしまった。

 夏目漱石作品に関して特権的な立場である小宮豊隆によって、どうも夏目漱石論というのはある程度方向づけられてしまっているという側面があるのではなかろうか。

 例えばどうも小宮豊隆は『行人』と『こゝろ』の主人公を一郎と先生だと見做している。この見立ては江藤淳を通じて柄谷行人に引き継がれる。小宮豊隆がそう言っているのだから、異論をはさむ余地がないということか。

 しかし『彼岸過迄』と『行人』と『こゝろ』を同型の小説と見做したとき、『彼岸過迄』が田川敬太郎の物語であるのと同じ意味で、『行人』は二郎の物語であり、『こゝろ』は冒頭の話者「私」の物語である。二郎が一郎に対する敬意を取り戻し、話者が先生を全肯定するのでなければ物語は閉じない。

 この視点がなければ『こゝろ』の最期は暗かったね、という頭の悪い中学生の素直な感想文のようなものが出来上がってしまう。この点について江藤淳は全ての出来事が終わった後に書きはじめられているという誤った解釈をしている。「私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられた」と書かれている「私だけには」の意味がまるで分かっていない。「あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい」だから「私だけには」なのだ。「あなた限りに」と「私だけには」がつながらなければ、それは殆ど『こゝろ』を讀んだということにはならない。ざっと目を通した、というべきか。つなげるために「あなた限りに」と「私だけには」という言葉が選ばれた。

 夏目漱石が選んだのだ。

 無論「事実」を「遺書」ではなく「純白な静」とみなし、「私だけには」静が得られたこと、それが証拠だという解釈の余地は残されている。しかしゾラ、モーパッサン式の落ちを嫌う漱石の性格を考えれば、証拠は遺書であると考えるべきだろう。

 それから小宮豊隆は「自分を待つてゐる死か狂氣か宗教かの選擇の前に、その最後の「私」を乘り越した。」として例の「一郎の三択」の原型を作り出してはいまいか。

 江藤淳はこの「一郎の三択」を明治の知識人の問題として、つまり夏目漱石自身の問題として柄谷行人にパスした。

 これも何度か書いたが、

 このようにすかさず一択になっているのでシンプルな誤読である。また狂気については、もう少し踏み込んで考える必要があるのではなかろうか。

 漱石はいわば神経衰弱善人説を唱えて、現在の世の中の正常者は異常で神経衰弱者こそが正常であるとする一種の価値観の転倒を行っているわけではあるが、これは神経衰弱者たる三重吉並びに漱石自身を「正しき人」であると同時に「徳義心ある人間」であると評価していることにほかならない。(『漱石文学が物語るもの 神経衰弱者への畏敬と癒し』高橋正雄、みすず書房、2009年)

 こうした「神経衰弱善人説」をとれば、二郎から見ても一郎は人格者となり得る。鏡子夫人によれば、実際漱石は自分が狂っているのではなく、世間のみんなが狂っていると考えている節があり、その被害妄想は鏡子夫人が漱石にこっそり睡眠薬を飲ませていたことから、ある程度は真実なのである。

 この狂気に関する思考実験として、当時の世界情勢と日本について考えてもらうと面白いのではなかろうか。日本も相当出鱈目だったが、西欧列強はもっと出鱈目だった。そもそも阿片戦争って……。

 それでまあ、結論的なことを云えば、小宮豊隆の解釈はそれとして、全部小宮が悪いわけではなかろう。

 むしろ彼を神主に祭り立てた人があまりにもだらしないね。

 もっとシンプルに、丁寧に読んで行かないと。ただ誤読をパスして、それで評論家ってのはどうなのかな? 

 神主よりご本尊が偉い。

 私は漱石信者ではないが、それくらいのことは解かっているつもりだ。

ほか弁より安い。


 





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