見出し画像

芥川龍之介の『早春』を読む  三重子をスポイルしたのは中村じゃないのか


 中村はもう一度腕時計を眺めた。腕時計は二時五分過ぎである。彼はちょっとためらった後、隣り合った鳥類の標本室へはいった。カナリヤ、錦鶏鳥、蜂雀、――美しい大小の剥製の鳥は硝子越しに彼を眺めている。三重子もこう言う鳥のように形骸だけを残したまま、魂の美しさを失ってしまった。彼ははっきり覚えている。三重子はこの前会った時にはチュウイン・ガムばかりしゃぶっていた。そのまた前に会った時にもオペラの唄ばかり歌っていた。殊に彼を驚かせたのは一月ほど前に会った三重子である。三重子はさんざんにふざけた揚句、フット・ボオルと称しながら、枕を天井へ蹴上げたりした。……(芥川龍之介『早春』)

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』を読みながら、「結局光源氏と違って河合譲治の教育がうまく行かなかっただけなんじゃないのか」と考えてしまった。そもそも天性の悪女などいるものではない。十五歳から十九歳までの間にナオミが受けた影響の多くは河合譲治が与えたものであり、一々指摘すればそれはかなりよろしくないものだった。ナオミを作り上げたのは河合譲治であると言って良いのではないか。

 芥川龍之介の『早春』は谷崎潤一郎の『痴人の愛』が発表された翌年の大正十四年の作である。原稿用紙十枚にも満たない小品ながら十年の時の経過を描く。(『痴人の愛』は八年間。)『早春』は三重子が十年間で11キロ太るという話である。博物館の爬虫類の標本室で待ち合わせをしていた中村と三重子が、約束の時刻に三重子が現れず、中村が「魂の美しさを失ってしまった」三重子に愛想をつかしていたために別れる話である。

「君はもう帰ってしまう。爬虫類の標本室はがらんとしている。そこへ、――時間はいくらもたたない。やっと三時十五分くらいだね、そこへ顔の青白い女学生が一人ひとりはいって来る。勿論もちろん看守も誰もいない。女学生は蛇や蜥蜴の中にいつまでもじっと佇んでいる。あすこは存外暮れ易いだろう。そのうちに光は薄れて来る。閉館の時刻もせまって来る。けれども女学生は同じようにいつまでもじっと佇んでいる。――と考えれば小説だがね。もっとも気の利きいた小説じゃない。三重子なるものは好いとしても、君を主人公にしていた日には……」
 中村はにやにや笑い出した。
「三重子も生憎肥っているのだよ。」
「君よりもか?」
「莫迦を言え。俺は二十三貫五百目さ。三重子は確か十七貫くらいだろう。」(芥川龍之介『早春』)

 いやしかし、「魂の美しさを失ってしまった」とはどういうことなのだろう。あるいは枕を天井へ蹴上げるとはどんな状況なのだろうか。八十八キロの巨漢と六十三キロの小太りが一体なにをしていたのだろうか。なにをしたら枕を蹴り上げたくなるのだろうか。「魂の美しさを失ってしまった」と言いながら失わせたのは中村ではないのか。例えば分かりやすい話、デブと付き合うと太るのは当たり前だ。成人したばかりの三重子をスポイルしたのは中村ではないのか。例えばナオミを河合譲治がスポイルしたように。
 

 もっとも情熱は失ったにもせよ、欲望は残っているはずである。欲望?――しかし欲望ではない。彼は今になって見ると、確かに三重子を愛している。三重子は枕を蹴上げたりした。けれどもその足は色の白いばかりか、しなやかに指を反らせている。殊にあの時の笑い声は――彼は小首を傾けた三重子の笑い声を思い出した。(芥川龍之介『早春』)

 芥川はわざわざ足の指にフォーカスして見せる。足、それも足の裏が好きな谷崎に見せつけるように。

「あ、あッはははは! いやよ浜さん、そんなに足の裏を擽っちゃ!」
「擽っているんじゃないんだよ、こんなに砂が附いているから、払ってやっているんじゃないか」
「ついでにそれを舐めちゃったら、パパさんになるぜ」(谷崎潤一郎『痴人の愛』)

 私は今日、『痴人の愛』は何故『痴人の性』ではないのかと書いたばかりだ。いや確かにそういう愛もあるのだと芥川も言うかもしれない。

[余談]

 アラサーの女が太ってしまったとして、それが落ちになるのかと考えた人は間違っている。芥川龍之介は守備範囲が広いのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?