凄いとしか言いようがない 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑦
平野啓一郎の「三島由紀夫論」の方を急いだので二日空いてしまった。牧野信一について書いたのはもう遠い昔のことのようで何を書いたのかすっかり忘れてしまった。
思い出した。悟空が王様のおかまを掘るんじゃないかという話だった。記録というのは便利なものだ。
いやこれではおかまを掘るどころではないな。それにしてもなんという造形、なんという捉え難さだ。比べてみると田中英光が阿呆みたいだ。
夢でジン・ジャンの小水を浴びて幸福になる本多も凄いが、そのひねり出した感がない分「魚のやうに口を開けて、ぐつたりとしてしまつた」の方が大体1.78倍くらい凄いんじゃないだろうか。
要するに偶像破壊とかイロニーといった子供っぽい機智ではないところ、牧野信一のどうしようもないところが出ているんじゃないかと疑わせるようなキャラクター設定だ。山頭火より放哉に近い得体の知れなさというものがある。
それでいて「嘔吐を催し度い程気持が悪く」というバランス感覚はあるのだから呆れてしまう。
しかも気取った近代文学者が決して使わない「で、」。これは話し言葉以外ではなかなか使う人がいない、粗野も見えるつなぎ方ではあるまいか。そして悟空に対して「嘔吐を催し度い程気持が悪く」と少しはバランス感覚のあるはずの王様が、今度はまた「わが王国全土を与へても」とでたらめを言い出す。国を捨てて逃げだそうとしたり、「わが王国全土を与へても」と言ってみたり、本当にこの王様の無責任さと言ったらない。
まるでバカ殿だ。
しかし実際の王様というものはこの程度に無責任で、無軌道であるのかもしれない。そんなものを牧野はどこかで耳にしたのかもしれない。
でこれ、普通に「仰け」とちゃう? 仰向け。
醜いのに自分を美人だと思い込む絹江を平野啓一郎はただの狂人と呼んでみる。
悟空の「さう云へば俺の眼附も丸々としてゐてちよつと可愛い」という見立ても狂人めいてはいるものの、ぎりぎりのところであろう。「いけない、いけない、そんなことを思ふまい……」と悟空も踏みとどまる。この踏みとどまりがなくなると狂人であるかどうかはまた議論の分かれるところ。
かと思えば自分の言葉に乗せられて「こりやほんとに俺は偉いぞ」と思ってみる。ここで牧野信一は言葉が無意識から発せられ、意志などというものとは無関係で、自分が自分の観察者でしかない悟空というものを描き出して、自分には無意識などないと言い張る三島由紀夫を揶揄っている。
発話行為の不確かさに対する認識は超時代的に鋭い。
確かに言葉というものはどこかからやってきて、自分の言い回しに感動してしまうことがある。しかしこれを書いたのは本人の弁を信じればまだ学生さんなのである。
さらには「動かうともせず王の足許へ次第ににじり寄つた」と書いてみる。これは中々書けないことだ。「動かうともせず」だから本来は動かない筈で、ミスだと思われかねない。しかし「動かうともせず王の足許へ次第ににじり寄つた」この距離でミスはなかろう。これは「沼泥の塊り」の比喩に合わせた動く泥の不随意運動の表現であろう。
この意思の不在。
悟空は例のぺろぺろ事件から連続していて「魚のやうに口を開けて、ぐつたりとしてしまつた」というところでもやはり制御を失っていることが解る。まあ意思なんてものはそんなものだということだ。一応あると仮定されているけれど確かめようがない。
それにしてもかなり破壊的な分析だ。なんだかとても恐ろしいものを詠んでいる気がする。三島由紀夫は本当にこの牧野信一を読んで理解できていたのか疑問だ。これは分人なんていう単純な話ではない。猿が犬になったり魚になったり泥になったりしている。むしろパーソナリティという考え方を否定していないか。
しかもそんなことが観念的なところではなく、より具体的に生の感覚として突き付けられていく。
これは……凄い。
しかしこの物凄さというのはきっと誰にも伝わらないのだろう。そんな現実が残念でならない。まあ物凄さというのは本質的にそんなものなのだけど。
[余談]
平野啓一郎の「三島由紀夫論」を読んでいたら『豊饒の海』くらいはきちんと読み解いておかないといけないなという気がしてきた。しかし時間が本当に足りない。当然牧野信一も全部はやり切れない。漱石も芥川も終わったわけでもないのに。
自分が百人くらいほしい。
そうすればなんとかなるのに。
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