マウントするつもりなのか 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか⑥
昨日は「朱紫国王の皇后」という言葉に引っかかると書いた。邪推と曲解は大嫌いだ。しかしここにはやはり天皇の隠ぺいがあると言わざるを得ないであろう。
しかしそれだけではない。「恋が如何に濃艶」とも普通は言わないことだ。恋は昔から激しくもはかないもの。「濃艶」とはもう少し生々しくなる。それは恋というよりもセックスを連想させる。無論ここで牧野は「恋が濃い」と洒落を遊んでいるのではあるまい。
と思えば「朱紫国王の皇后」「金聖皇后」は牧野信一の発明ではないようだ。
起源はともかく国王を「天子」その妃を「皇后」とするねじれは明治十六年の絵本に既に見つかる。するとここには牧野のオリジナルな意図はそもそもなかったのかもしれない。
いや、そもそも外国の国王の妃を皇后と呼ぶ例は、江戸時代以前から見られるようで格別珍しい呼び方ではそもそもなかったのかもしれない。
牧野のオリジナルな意図は朱紫国の人々を男女の見分けがつかないくらい美しい、女性的な者に仕立てたところまでか。いや「二人の恋人は相抱いて城を落ち延びようと逃げ出したのだつたが」と国王と皇后に国を捨てさせようとしているところもおかしいし、「ヒイヒイと声を上げて泣き続けて来た」とはいかにも国王を貶め過ぎてはいまいか。
そしてここ。
何か日本語としておかしくないだろうか。「滞ふれば」も「とどこほる」なので「滞ほれば」だろうか。
とりあえずここは牧野が「縦令全土を火の海に化されやうとも」という自己犠牲の精神のない国王と皇后を描き、これまでの毎年三人の侍女の生贄は何だったんだと思わせようとしているところか。
賽太歳大王が大王なのも元々のようだ。
王の声は鋭く甲高く、また性欲は強いらしい。
しかしここで気になるのは手を舐めるほど求めていた王に対して悟空が何か上から目線で豪胆に「王が若し私にもう一度会ふたら、皇后を救つてやるからと伝へて見よ。」と近侍の者へ告げているところだ。「救つてやるから」とそのまま伝わればいかにも不敬である。「どうかわたくしにお命じ下さい」と言わないのは臣下ではないからか。私は犬と同様なのです、と言っていたのが嘘のようだ。
その変化はまさにふらふらとしていて病的。捉えどころがない。
国を捨てて逃げ延びようとしていた王がまた軽々と「朱紫国全土を捧げても」と国を売る気満々である冗談に牧野は気がついているのだろうか。そこはまだはっきりしないが、少なくとも王はこの猿の「巧みに発する言葉」には気がついていたようだ。読者は烏金丸の製法の説明のくだりでそのことに引っかかっていた筈だ。ここは牧野が念押ししている。
そして「あんな猿にも人を恋するやうな慾望があるのかしら! 」は疑問文ではないので「一途に慄然としてしまつた」という受け止め方と合わせて少しちぐはぐに感じる所である。
形式としては後の悟空のこの思いの先取りのような形になっている。また「尋ねあぐんだ恋人がはにかんでゐるのだ」という表現が「恋病ひの女郎のやうに」と喩えられた王様に繰り返し女っぽさを与えていて、「唇」というピンポイントの指摘が妙に生々しい。
それは王が既に「恋するやうな慾望」と言ってしまっているからだ。恋は欲望なのかと改めて考えてみると、当然そうであるようにも思えるけれども、もうすこし「いつの間にかだんだん気になる存在になって行って、ついその人のことを考えてしまう」という殆ど無自覚な恋の要素が慾望という言葉と距離を取りたがっているようにも感じてしまう。しかし牧野はここまで肉感的なもの、生々しいもの、そういう身悶えする慾望として恋を扱ってきていた。
どうも牧野は性欲が強いのではなかろうか。
美輪明宏に対する三島由紀夫の態度のように悟空の慾望ははっきりと同性である王に向けられている。皇后への関心はない。
そして計画はまだない。「懦弱で臆病で艶麗な王の命令で神通蛮勇の猿が悪魔と戦ふ」それは不合理なことを信じて幻滅するという三島由紀夫の定石でもない。しかし自らの死の報酬として「ちよつとでもいゝから王が親しみの色を示して呉れたら、本望だ」とはまるで特攻隊員の天皇に対する片恋ではないか。
殺人、掠奪、姦淫の幻想、そこにあったのは王の近侍の者を殺し、王を掠奪し、裏返して何度も石油井戸を掘るようなホモセクシャルなふるまいだったのだ。
ホモセクシャル?
猿と人だからそこに獣姦の要素が加わるわけか。何ちゅう話を牧野信一は書いているのだ。
三島由紀夫は熱い握り飯を天皇の口をこじ開けてでも食べさせるつもりだった。では悟空の熱い握り飯はなんなのか。悟空がここで要求している「親しみの色」とはより具体的には何を指すのか。LINEのスタンプでもいいのか。それはまだ誰にも解らない。何故ならここまでしか読んでいないからだ。
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