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『彼岸過迄』を読む 4382 漱石全集注釈を校正する⑨ 島田は督促髷

 日本語だから日本人には通じる、と思いこんで書いてしまうことがある。私は特にそういう書き方をしている。しかし他人の書いているものを読むと、これで意味が伝わるのかと思うことがある。

岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、

好くつてよ いいわよ。明治の女学生がよく用いた言葉の一つ。

(『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』岩波書店 2017年)

 ……とある。世界一高精度な翻訳ツールDeepLはこれを、

I like it, it's fine. One of the words often used by female students in the Meiji era.

 と翻訳する。これでニュアンスが伝わっているだろうか。

 言い方次第だとは思うが、「好くつてよ」の意味は I like it, it's fine.では伝わらないのではなかろうか。『彼岸過迄』では「知らないわ」が省略されているが、本来の流行語は『それから』で用いられた「好くつてよ、知らないわ」であり、意味としては「お好きになさい」Suit yourself. に近いのではなかろうか。
 ただし小説などの用例では「好くつてよ」が単独で、OK程度の意味で使われていることも少なくないので、個々に文脈で見て行くしかない。『彼岸過迄』ではOKという意味ではなく、「あらそう」程度の意味と捉えるべきだろうか。

 また、岩波書店『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』注解に、

島田 島田髷のこと。主に未婚の女性が結う日本髪で、婚礼の折に結う風習がある。 

(『定本 漱石全集第七巻 彼岸過迄』岩波書店 2017年)

 この点に関してはほぼ槌田満文の『明治大正風俗語典』(角川選書 1979年)の解釈通り、「督促髷」のニュアンスを加えたい。このニュアンスがあってこそ、

「何に結おうかしら」
 髪結は島田を勧めた。母も同じ意見であった。千代子は長い髪を背中に垂れたまま突然市さんと呼んだ。
「あなた何が好き」
「旦那様も島田が好きだときっとおっしゃいますよ」
 僕はぎくりとした。千代子はまるで平気のように見えた。わざと僕の方をふり返って、「じゃ島田に結って見せたげましょうか」と笑った。「好いだろう」と答えた僕の声はいかにも鈍に聞こえた。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この場面の千代子がぐいぐいくる感じが活きて來る。
 また、

 彼の実の母は、彼を生むと間もなく死んでしまったのである。それは産後の肥立ちが悪かったせいだとも云い、または別の病だとも聞いているが、これも詳しい話をしてやるほどの材料に欠乏した僕の記憶では、とうてい餓た彼の眼を静めるに足りなかった。彼の生母の最後の運命に関する僕の話は、わずか二三分で尽きてしまった。彼は遺憾な顔をして彼女の名前を聞いた。幸いにして僕は御弓という古風な名を忘れずにいた。彼は次に死んだ時の彼女の年齢を問うた。僕はその点に関して、何という確とした知識を有っていなかった。彼は最後に、彼の宅に奉公していた時分の彼女に会った事があるかと尋ねた。僕はあると答えた。彼はどんな女だと聞き返した。気の毒にも僕の記憶はすこぶる朦朧としていた。事実僕はその当時十五六の少年に過ぎなかったのである。
「何でも島田に結ってた事がある」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この場面の切なさが活きて來る。督促髷の女を孕ませて捨て、子供を奪う残酷さが見えてくる。


[余談]

 便利なのでいつもは『青空文庫』を利用していて、たまに全集を見ると「あれ」っと思うことがある。
 例えば松本恒三の妻は「御仙」なのだが、全集では「御多代」とされている。「三代子」「三千代」をよく間違えるところに「御多代」とは少々やかましい。「松本多代」は「松本伊代」じゃないよと覚えることにしよう。



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