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『薤露行』について②

 昨日は『薤露行』に関して、ランスロットとギニヴィアに漱石自身と嫂の関係を見ようとする江藤淳や蓮實重彦の見立てがいかにも見当違いであり、江藤淳の博士号は剝奪されるべきであり、漱石は皇后陛下を侮辱していることになるという指摘をした。いや、そこまでは指摘していないな。
 しかしギニヴィアのふるまいは品性を欠き、まさに車夫の情婦のようでさえあり、ランスロットはすけこましのようだとは指摘した。車夫の情婦とすけこましの関係の中に自身と嫂を投影しようとは流石に漱石も考えまい。人間として尊敬すべき対象として見ていた嫂をギニヴィアに準えようとは考えないだろうし、仮に準えたとしたならばギニヴィアにはもっと慎み深さや気高さを与えただろう。
 それにしてもランスロットとギニヴィアに漱石自身と嫂の関係を見ようとした江藤淳に博士号を与えた方も与えた方だ。なんでも与えればいいというものでもなかろうに。

 で、今日は本題、『薤露行』に関してランスロットとギニヴィアに漱石自身と嫂の関係を見ようとした江藤淳がいかに頓珍漢な読者だったのかという点について指摘したい。

 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。(夏目漱石『薤露行』)

 この漱石の前書きのようなものは、ギニヴィアが車夫の情婦のように描かれていることから明らかに「ふり」である。それは丁度『三四郎』の予告で「摩訶不思議は書けない」としながら、実際には摩訶不思議な作品を書いてしまったのと同じだ。汽車の中の爺さんと色の黒い女と三四郎の位置関係、弁当に当りに来る女の魂胆、積極性、三四郎の乗車駅、と一応の解釈ができるものもあるが、野々宮の探し物と授業の開始日に関しては誰も解っていないだろう。まあ、その話は長くなるのでここでは『薤露行』に話を戻すが、仮にギニヴィアにその気があったにせよ、もう少し慎みや恥じらいを持たせることは可能だったはずなのに、漱石はどうもわざと車夫の情婦のように描いている。このことに気が付かないで勝手な解釈を拡張してしまったのは恥ずかしいふるまいである。

 それから今日は本題と書いたのは、昨日は余談と云う意味である。何故ならタイトルはそもそも『薤露行』なのである。第一章「夢」には確かにランスロットとギニヴィアの二人しか登場しない。普通に考えればギニヴィアがヒロインになる筈だが、それでは『薤露行』というタイトルにはならない。一郎が主人公では『行人』というタイトルにならないのと同じ理屈だ。『薤露行』のヒロインはエレーンである。

 今はこれまでの命と思い詰めたるとき、エレーンは父と兄とを枕辺に招きて「わがためにランスロットへの文かきて玉われ」という。父は筆と紙を取り出でて、死なんとする人の言の葉を一々に書き付ける。
「天が下に慕える人は君ひとりなり。君一人のために死ぬるわれを憐れと思え。陽炎燃ゆる黒髪の、長き乱れの土となるとも、胸に彫るランスロットの名は、星変る後の世までも消えじ。愛の炎に染めたる文字の、土水の因果を受くる理なしと思えば。睫に宿る露の珠に、写ると見れば砕けたる、君の面影の脆くもあるかな。わが命もしかく脆きを、涙あらば濺げ。基督も知る、死ぬるまで清き乙女なり」
 書き終りたる文字は怪しげに乱れて定かならず。年寄の手の顫えたるは、老のためとも悲しみのためとも知れず。
 女またいう。「息絶えて、身の暖かなるうち、右の手にこの文を握らせ給え。手も足も冷え尽したる後、ありとある美しき衣にわれを着飾り給え。隙間なく黒き布しき詰めたる小船の中にわれを載せ給え。山に野に白き薔薇、白き百合を採り尽して舟に投げ入れ給え。――舟は流し給え」
 かくしてエレーンは眼を眠る。眠りたる眼は開く期ごなし。父と兄とは唯々として遺言の如ごとく、憐れなる少女の亡骸を舟に運ぶ。(夏目漱石『薤露行』)

 それは読めば分かる、という程度の話なのでくどくどと説明しない。だからランスロットとギニヴィアにフォーカスしてしまった江藤淳を頓珍漢と云うのだ。いや、実際どうなのだろうか。『薤露行』のヒロインはエレーンである、と云われて「意外」な人など存在するものだろうか。要するにギニヴィアはだしに使われている。もう一度この場面を見てみよう。

「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾日を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
美しき少女! 美しき少女!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履に三たび石の床を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。(夏目漱石『薤露行』)

 こんな相撲取りみたいなヒロインはいない。美しき少女に対してギニヴィアは完全に引き立て役になっている。結末はこうだ。

 エレーンの屍は凡ての屍のうちにて最も美しい。涼しき顔を、雲と乱るる黄金の髪に埋めて、笑える如く横たわる。肉に付着するあらゆる肉の不浄を拭い去って、霊その物の面影を口鼻の間に示せるは朗かにもまた極めて清い。苦しみも、憂いも、恨みも、憤りも――世に忌しきものの痕なければ土に帰る人とは見えず。
 王は厳かなる声にて「何者ぞ」と問う。櫂の手を休めたる老人は唖の如く口を開かぬ。ギニヴィアはつと石階を下りて、乱るる百合の花の中より、エレーンの右の手に握る文を取り上げて何事と封を切る。
 悲しき声はまた水を渡りて、「……うつくしき……恋、色や……うつろう」と細き糸ふって波うたせたる時の如くに人々の耳を貫く。
 読み終りたるギニヴィアは、腰をのして舟の中なるエレーンの額――透き徹るエレーンの額に、顫えたる唇をつけつつ「美くしき少女!」という。同時に一滴の熱き涙はエレーンの冷たき頬の上に落つる。
 十三人の騎士は目と目を見合せた。(夏目漱石『薤露行』)

 生き残ったからヒロインと云う訳ではなかろう。『薤露行』は美しき少女・エレーンがはかなく散る話だ。どすこいおばさんが泣く話ではない。

 そして余談。
 江藤淳はランスロットとギニヴィアに漱石と嫂の関係を見ようとしたが、その位頓珍漢なことを考えるのなら、改めて漱石の途轍もなさについて考えて見ても良いだろう。

 どうも『倫敦塔』や『カーライル博物館』を見ていくと漱石の妄想力は途轍もない。普通はこうは考えないだろうという変換をしてくる。だからもし、『薤露行』に嫂の何かが反映したとするならば、嫂を美しき少女に戻して、自分一人に惚れさせたまま殺してしまうくらいのことを考えなくてはなるまい。

 勿論そんなことまで考える必要はない。ただどすこいおばさんのどすこいに気が付かなければ、やはり『薤露行』を読んだとは言えまい。







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