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谷崎潤一郎の『肉塊』を読む

 谷崎潤一郎が『肉塊』において、これまでにない小説を書くことを試みたことは明らかだろう。この小説は映画製作の現場を描いた「映画的小説」である。この小説では「筋」は重視されない。作中で製作されている映画がグランドレンという不良少女の美しさにのみ頼った冗長でクローズアップの多い失敗作であることを主人公小野田吉之助は頑として認めない。しかしこの批評は『肉塊』そのものに向けられたものではなかっただろうか。実際『肉塊』を読みながら太宰治が西洋の小説に対して批評したような「大盛り」という印象を否めない。

 この話はそもそも、

凡そ世の中に、藝術家の素質を持ちながら而も藝術の才能のない人ほど、氣の毒な者はあるまい。その人は俗人の中にまじつて彼等と幸福を共にすることも出来ないし、藝術家と同じ高さに立つて、創造の喜びに浸ることもできないのである。その人はたゞ、他人のすぐれた藝術を仰いで、それを恰も我物の如く愛好し、出来るだけそれに親しみ近づくことによつて、纔かに藝術家の持つ喜びの幾分を知る。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 という「藝術家の素質を持ちながら而も藝術の才能のない人」であるところの商家の息子小野田吉之助が、つまり絵も詩も書けない男が、活動写真という文明の利器を得て、芸術鑑賞家から映画製作者へと踏み出そうとする話しだ。その映画、フィルムと云うものに対する小野田吉之助の思いは谷崎自身の本音に近いものがあっただろう。

大袈裟に云ふと、全體宇宙といふものが、此の世の中の凡ての現象が、みんなフィルムのやうなもので、刹那々々に變化はして行くが、過去は何處かに巻き収められて殘つてゐるんぢゃないだらうか? だから此處にゐる己たちは直に跡方もなく消えてしまふ影に過ぎないが、本物の方はちゃんと宇宙のフィルムの中に生きてゐるんぢゃないだらうか? 己たちの見る夢だとか空想だとかいふものも、つまりそれらの過去のフィルムが頭の中へ光を投げるので、決して単なる幻ではないのだ。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 この「フィルム」という新しい玩具を手にした小野田の中二病のような宇宙観を笑ってはいけない。「フィルム」というものが現れる以前から、アカシックレコード的な概念はあった。

 しかし人々は写真やレコードやフィルムという具体を実際に獲得してみて、これまで比喩であり、観念でしかなかったものが都度一層リアルに感じられるものなのである。またここではマクタガート的な時間の非存在が指摘されてもいるようでさえある。

 さらには創作物や妄想も実在するというマルクス・ガブリエルの新実在論に接近するような気配さえある。

 映画の方が本物の世界だ、という小野田の極論は、妻・民子に真顔で同意されてしまう。そして人間を材料に永遠の夢を作る活動写真の世界へ向かう。映画製作所を作り、スタッフを集める。グランドレンと出会う。そのくだりが何故か冗長なのだ。そこを何故、事細かく書かねばならぬのかと、ふと、『熱風に吹かれて』を思い出す。

 グランドレンと出会い、実際の映画製作に取りかかってもやはり事件らしい事件も起こらずだらだらする。

「待つた! その表情を變へてはいけない! クローズ・アップ!」吉之助は駈けて行つて人魚とプリンスの間に立つた。「キャメラは此處だ!」そして柴山を顧みながら靴の踵で床を叩いた。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 谷崎の意図としては臨場感のある撮影現場の雰囲気、映画製作に賭ける小野田の情熱を表現するところではあろうが、さて、太宰治ならこれを読んで何と言うだろうか? と、太宰に責任転嫁してもしょうがないので正直に書いてしまえば、「なんだいこれは」と感ずるところである。けして不味くはない。不味くはないが格好をつけすぎていて、芝居が大きい。そしてなんとこれが第五章の結びなのである。だからどうしても見栄を切った形になり、芝居が大きい印象になる。芝居が大きいとはどうということだと谷崎も作中で自問しているから、ここはわざとそのように書いていると見ても良いが、

「いや、何でもない、スマイリング・スルウだ。」(谷崎潤一郎『肉塊』)

 ……などという台詞に出くわすと、背中がぞわっとする。レトロ感を楽しむことも出来ない。

「だってねエ、理想は喰たべられませんものを!」と言った上村の顔は兎のようであった。
「ハハハハビフテキじゃアあるまいし!」と竹内は大口を開けて笑った。
「否ビフテキです、実際はビフテキです、スチューです」
「オムレツかね!」と今まで黙って半分眠りかけていた、真紅な顔をしている松木、坐中で一番年の若そうな紳士が真面目で言った。
「ハッハッハッハッ」と一坐が噴飯だした。
「イヤ笑いごとじゃアないよ」と上村は少し躍起になって、
「例えてみればそんなものなんで、理想に従がえば芋ばかし喰くっていなきゃアならない。ことによると馬鈴薯も喰えないことになる。諸君は牛肉と馬鈴薯とどっちが可いい?」
「牛肉が可いねエ!」と松木は又た眠むそうな声で真面目に言った。(国木田独歩『牛肉と馬鈴薯』)

 ここまでくるとレトロな味わいがあるが、谷崎の場合は当時の最先端の風俗を捉えようとして、軽く滑っているところがないだろうか。また例えば「グランドレン!」という台詞、その後何も続かない台詞が、四回続く場面がある。これは単調、と言ってよいだろう。その後の第八章はまたこう始まる。

「シーン二百三十六! プリンスのクローズ・アップだ。」(谷崎潤一郎『肉塊』)

 映画コントで何度も聞かされてきたような台詞に続いて、またクローズ・アップが出て来ると、「それ、格好いいと思って使っているの?」と問いただしたくなる。それから話はシーンが多すぎ、ダレる、クローズ・アップが多すぎるという方向に進む。小野田は物語の発展よりも刹那々々の美しさを現したいという。これはメタフィクショナルな指摘で、この『肉塊』の自己弁護にもあたろう。『肉塊』はここまでグランドレンの美しさにフォーカスして書かれてきた。しかしやはりそれは余りにも諄い。小野田はえこひいきはしていないと繰り返す。しかしすでに我々は前作においてえこひいきのロジックを見てきたので、そうやすやすと小野田を信じることはできない。

 小野田はグランドレンの美しさだけを現せればそれが芸術だと信じている。しかしその話がまた一々長いのだ。このグダグダした話は、急に堕ちる。グランドレンのクローズアップばかりの失敗作の後、小野田の相棒が、小野田の妻をヒロインに次回作を製作するとこれが大成功する。その次の作品も当る。一年ばかりの間に民子の才能は世間に認められるようになる。吉之助はグランドレンのことが忘れられない。そしてやはり自分は凡庸な人間だったのだと悟る。

要するに唯淫慾の變形だつたのぢゃないか? 自分の中にあるのはグランドレンだけなのだ、彼女のなまめかしい肉體がいろいろの妄想を見させただけなのだ。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 しかしこんな吉之助を谷崎自身と簡単に重ねしてしまうことは出来ない。その方向に谷崎が誘っていること自体は明らかなのだ。この話はこう結ばれる。

 柴山と民子とが、ある時ふと、妙な風聞を耳にしたのはそれから又半年ばかり立つた頃だつた。────吉之助が此の頃猶太人のデブリスと一緒に、非常に秘密に繪を作つてゐる。俳優はグランドレンと、相澤と、そして吉之助自身も時々登場してゐる。その繪は士人の到底見るに堪へないやうな、淫らな娯樂に供する映畫で、主として上海から、南洋や西伯利邊の殖民地へ賣り捌くのだが、今に警察に見つからなければいいがと云ふやうな噂だつた。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 ここで「お前は村西監督か!」と突っ込めばいささか気が紛れるだろうが、それで済まされる話でもなかろう。

 まずここで「柴山と民子とが」とあることを確認しよう。こうした噂話は大抵どちらかが偶然耳にするものだが、ここではあたかも二人が同時に耳にしたかの如く書かれている。つまりその位公私ともに二人が一緒にいた可能性を示唆するものだろう。少なくともグランドレンの代わりに民子を担ぎ出した柴山には、民子は十分美しく見えていたのであり、柴山が映画を通して民子の美しさを現し得たのであれば、小野田のふりを考えた時、柴山が民子に魅了されていなかったと考える方がむしろ難しい。 

 またこの作品に『肉塊』という題が与えられていて、この作品の主人公が小野田吉之助であると見立てた時、この結末は確かに小野田吉之助を肉塊と見做しているのだと確認しておこう。肉塊とは芸術を解せぬもの、

一個の詰まらない家庭の父で甘んじるやうにさせられてしまふ。さうなつたら己はおしまひだと思つた。己はさういふ己自身を考えただけでも腹が立つた。(谷崎潤一郎『肉塊』)

 一個の詰まらない家庭の父、である。これは谷崎流の「お汁粉バンザイ」であろうか。

 また、例によって谷崎は、

 三島由紀夫は、野暮なことを嫌った都会人の谷崎は自身の格闘を見せることをせず、「なるたけ負けたような顔をして、そして非常に自己韜晦の成功した人」だと論じている。しかしながら、三島はその谷崎の小説家としての天才を賞揚しつつも、その作品群が激動の時代を生きながらも、あまりに社会批評的なものを一切含まずに無縁であることが逆に谷崎の本然の有り方でないともし、「谷崎氏の文学世界はあまりに時代と歴史の運命から超然としてゐるのが、かへつて不自然」とも述べて、岸田国士が戦時中に自ら戦地に踏み込み、時代を受け止めたのとは対極の意味合いで、「結局別の形で自分の文学を歪められた」作家であると論じている。(ウイキペディア「谷崎潤一郎」より)

 こんな三島由紀夫の批判に我慢がならなかったと見えて、ついつい「西伯利邊の殖民地」などと書いてしまう。そんなところにまで売りさばかなくてもいいだろう、谷崎ニシパ!














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