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『それから』を読む① 『それから』の椿は俯せに落ちたのか? 

『それから』第一章は、代助が朝目覚めて枕元を見ると、紅い八重の椿が一輪落ちているのを見つけるところからはじまる。そして寝ながら煙草を吹かした代助が、「畳の上の椿を取って、引っくり返して、鼻の先へ持って来た。口と口髭と鼻の大部分が全く隠れた」と続くのである。さて、この場面、椿の花の匂いをかぐために「引っくり返し」た、と漱石は書いている。となると、畳の上に落ちていた状態は……。ここは椿が伏せて落ちなくてはおかしいことになる。(『漱石先生大いに笑う』半藤一利/講談社/1996年)

 これは文芸批評というようなものではなく、夏目漱石の俳句に関する愉快なあれこれといった話で、「ここは誤読だ、これは違う」といちいち目くじら立てて議論するべき対象ではないが、一旦目についてしまうと法律でもなんでも「これは違う」とやってしまわなければ気が済まないのが私の性分である。

 誰か慌しく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。
 枕元を見ると、八重の椿が一輪畳の上に落ちている。代助は昨夕べ床の中で慥かにこの花の落ちる音を聞いた。彼の耳には、それが護謨毬を天井裏から投げ付けた程に響いた。夜が更けて、四隣が静かな所為かとも思ったが、念のため、右の手を心臓の上に載せて、肋のはずれに正しく中る血の音を確かめながら眠りに就いた。
 ぼんやりして、少時、赤ん坊の頭程もある大きな花の色を見詰めていた彼は、急に思い出した様に、寐ながら胸の上に手を当てて、又心臓の鼓動を検し始めた。寐ながら胸の脈を聴いてみるのは彼の近来の癖になっている。動悸は相変らず落ち付いて確かに打っていた。彼は胸に手を当てたまま、この鼓動の下に、温かい紅の血潮の緩く流れる様を想像してみた。これが命であると考えた。自分は今流れる命を掌で抑えているんだと考えた。それから、この掌に応える、時計の針に似た響は、自分を死に誘う警鐘の様なものであると考えた。この警鐘を聞くことなしに生きていられたなら、――血を盛る袋が、時を盛る袋の用を兼ねなかったなら、如何いかに自分は気楽だろう。如何に自分は絶対に生を味わい得るだろう。けれども――代助は覚えずぞっとした。彼は血潮によって打たるる掛念のない、静かな心臓を想像するに堪えぬ程に、生きたがる男である。彼は時々寐ながら、左の乳の下に手を置いて、もし、此所を鉄槌で一つ撲やされたならと思う事がある。彼は健全に生きていながら、この生きているという大丈夫な事実を、殆ほとんど奇蹟きせきの如き僥倖とのみ自覚し出す事さえある。
 彼は心臓から手を放して、枕元の新聞を取り上げた。夜具の中から両手を出して、大きく左右に開くと、左側に男が女を斬っている絵があった。彼はすぐ外の頁へ眼を移した。其所には学校騒動が大きな活字で出ている。代助は、しばらく、それを読んでいたが、やがて、惓怠そうな手から、はたりと新聞を夜具の上に落した。それから烟草を一本吹かしながら、五寸ばかり布団を摺り出して、畳の上の椿を取って、引っ繰り返して、鼻の先へ持って来た。口と口髭と鼻の大部分が全く隠れた。烟は椿の弁と蕊に絡まって漂う程濃く出た。それを白い敷布の上に置くと、立ち上がって風呂場へ行った。(夏目漱石『それから』)

 これが『それから』の冒頭であるとするなら半藤一利の説明では「誰か慌しく門前を馳けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退くに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。」という部分が消えてしまっている。それはまあ良いとしよう。半藤は「紅い八重の椿」と書いてしまう。椿は赤いが、作中には赤いとは書かれていない。紅いのは「温かい紅の血潮」である。「寝ながら煙草を吹かした代助が」と半藤は書いているが、寝たままでは煙草に火をつけづらいので、体はもうひっくり返っていたのではなかろうか。そしてここが肝心なのだが「さて、この場面、椿の花の匂いをかぐために「引っくり返し」た、と漱石は書いている。」とあるも、そのようなことは書かれていない。「烟は椿の弁と蕊に絡まって漂う程濃く出た。」とあるだけだ。呼吸すれば匂いは自然と鼻に感じられたかもしれないが「椿の花の匂いをかぐために」とは書かれていない。

 このことは『三四郎』の気が付かなさ、誤解との関連から見ていっても良いだろう。

 団扇はもうかざしていない。左の手に白い小さな花を持って、それをかぎながら来る。かぎながら、鼻の下にあてがった花を見ながら、歩くので、目は伏せている。それで三四郎から一間ばかりの所へ来てひょいととまった。

 二人の女は三四郎の前を通り過ぎる。若いほうが今までかいでいた白い花を三四郎の前へ落として行った。

 三四郎は女の落として行った花を拾った。そうしてかいでみた。けれどもべつだんのにおいもなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎は女が白い花の匂いを嗅いでいるのだと思い込んだ。しかし花に匂いはなかった。私はここでいわば芥川の『芋粥』における狐のような役割を白い花が果たしたのではないかと解釈しており、そういうことを既に書いている。白い花に呪文をかけたのだとしたら、三四郎は白い花を通して見事に呪文にかかっている。『三四郎』の読みに於いて「美禰子は白い花の匂いを嗅いでいたか」という設問があれば、答えは「〇」とせざるを得ない。しかしそもそもべつだんのにおいもないものを「嗅ぐ」というのはあくまで「ふり」になってしまうので「×」と回答したものを不正解にすることもできない。

 「烟は椿の弁と蕊に絡まって漂う程濃く出た。」という記述に関して、「代助は椿の花の匂いを嗅ぐために引っくり返したか」という設問があれば、答えは「×」とせざるを得ない。無論「代助は椿の花の匂いを嗅いだか」と問われればそこには明確な答えはない。ただ視覚的には白い敷布の上に置かれた椿は煙を上げる日の丸のポンチ絵を拵えたのではないかというのが私の解釈である。

【付記】

 肝心なことを書き忘れた。そもそも半藤は、

 落ちさまに虻を伏せたる椿哉

 …という漱石の句に対して、椿は仰向けに落ちるのではないかと疑問を抱き、『それから』でも俯向きに落ちているようであることに言及しているのだが、このことは『漱石と寅彦』において工学博士の志村史夫が述べているように、寺田寅彦が「落椿の物理学」として既に研究している。「空中を落下する特殊な形状の物体の運動について━━椿の花」というタイトルの英文の論文として昭和八年に発表されたそうだ。

 その結論を孫引きすれば、

 樹が高いほど俯向きに落ちた花よりも仰向きに落ちた花の数の比率が大きいという結果になるのである。しかし低い樹だと俯向きに枝を離れた花は空中で廻転する間がないのでそのまま俯向きに落ちつくのが通例である。(中略)それでもし虻が花の蕊の上にしがみついていてそのままに落下すると、虫のために全体の重心がいくらか移動しその結果はいくらかでも上記の反転作用を減ずるようになるであろうと想像される。すなわち虻を伏せやすくなるのである。(『漱石と寅彦』志村史夫、牧野出版、2008年)

 半藤の疑問は既に寺田寅彦によって解かれている。そう書くのを忘れていた。いかにももう遅すぎるのだが。





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