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川上未映子の『あこがれ』をどう読むか① 許容範囲

 例えば夏目漱石は猫や青年に語らせることができたとして、女として語ることをしなかった。吾輩も立派な雄猫である。芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫などが躊躇なく女目線でも書いたのに対して、やはり村上春樹も少年には語らせることはあっても後は全て男、であったものを『1Q84』では青豆雅美という女性に語らせはしたものの、レイプ疑惑のある人間は被害者の写真だけを証拠に殺しても良く、それとは無関係に金玉を蹴り上げる練習をするなんとも変てこりんなキャラクターを作り出してしまった。
 賛否はあろうが、さすがにこれは無理があるのではなかろうかと私は思った。

 書き手には、ここまでは憑依できるという許容範囲がそれぞれにあり、例えばそれが川上未映子の場合には「おっさんとして語ることはできない」というようなものではないかと思ってみる。川上未映子は生きているので、これが川上未映子という作家の本質にかかわることなのかどうなのかはまだ分からない。しかし『あこがれ』という小説を読み始めて数分でそんな思いに囚われた。

 語り手は小学校四年生の男の子、ここまでなら川上未映子は憑依できるのだろう。彼がまだおっさんではないから。

 ぼくはミス・アイスサンドイッチという目の大きな女が気になっている。ママは占いのような仕事をしている。ぼくが四歳の時に父親が死に、そのままおばあちゃんの家に住み、おばあちゃんの年金で生活している。おばあちゃんは寝たきりだ。

 丁寧におっさんが排除されている。

 大きな音の紅茶のにおいがするおならをした同級生にぼくはヘガティーというあだ名をつけた。気がつくと先生までがヘガティーと呼ぶようになっていた。ヘガティーは黒色のおかっぱ頭だった。ヘガティーの家には映画のDVDがたくさんあるらしい。

 ぼくはおばあちゃんにミス・アイスサンドイッチの話をして、ミス・アイスサンドイッチの絵を描く。

 ママとの間には盛り上がる話題がない。ママは夜ご飯を食べない。

 或時変におっさんがミス・アイスサンドイッチに文句を言っているのに出くわす。みっともないのはいつも男だ。

 一緒に映画を見てヘガティーと仲良くなったぼくはミス・アイスサンドイッチが気になっていることを打ち明ける。くらいの女の子たちが、ミス・アイスサンドイッチの成形で大きくした目のことを話していたのが気になると。

 そしてちょっと端折るとヘガティーと仲良くなったぼくはミス・アイスサンドイッチに会いに行く。

 まるで巫女的存在の女性に操られる村上春樹の小説の主人公のように。

 フロリダまでは213。丁寧までは320。教会薬は380で、チョコ・スキップまでは415。四十代まで430。野菜ブーツはいつでも500。512は雨のお墓で、夕方、女の子がいつもたまっている犬猫ベンチは607。

(川上未映子『あこがれ』新潮社 2015年)

 この書き出しが落ちたら見事なものだと思っていたが、さすがに落ちなかった。

 この落ちないふりも村上流ということか。

 いやどこかで落ちているのか。

 落ちが見つからない。

 この数字は一体何なのか。いわゆる散らかしただけなのか。

 ミス・アイスサンドイッチは結婚してどこかに行ってしまう。何故アイスサンドイッチなのかもよく分からない。ヘガティーには母親がいない。この何かが欠けている感じと、性徴のないキャラクター、そしてヘガティーという抜群のネーミングセンスが光るが……数字の意味が。

 この年代の男の子には(そして性的に未分化な女の子にも)ある種わけの分からないこだわりや感覚のようなものがあって、それは大人には理解できないものなのだという理窟は分かる。そこに憑依してみれば、いくらでもおかしなことが出てくる。

 私も子供の頃は砂利をいつまでも眺めていられた。砂利と言っても線路に敷いてあるようなものではなく、本当に自然な砂利だ。都会ではなかなか見かけないが、自然な砂利にはごく当たり前のようにあざやかな緑や赤の粒が見つかる。ガラス片ではない。それ則ちエメラルドやルビーであるわけもないが、とにかくいろんな色の粒があるのだ。今ではそんなものに時間を奪われはしないが、昔はそんなものをいつまでも眺めていられた。

 言ってみれば脳の仕組みが根本的に違うのだ。なにかを「する」ための目的実行型のプログラムではなく、なにかを翻訳するインタープリタープログラムのような……少し違うな。とにかく何かが違うのだ。

 プラトンの『ティマイオス』では何か物凄く高いテンション、いわゆる歓喜の中で宇宙の仕組みが説明される。その中ではいわゆる現代で言うところの共感覚的な形で形と色と数字とがまさに今目の前に見えているかのごとくく組み合わされる。恐らく齢六十近いプラトンにはそれが本当に見えていたのであろう。

 だから野菜ブーツはいつでも500でいい、とはならない。

 Xで幼い子供の言語活動を言語学者と哲学者がポストしているのをよく目にする。それは実に興味深いもので、主語や助詞の抜けと言った文法的な意味ではなく、何故そういう発話行為に至ったのかといった思考について考えさせられるものだ。しかしまだ共感覚は一例も見たことがない。

 勿論数の美しさに関するポストはいくらでも目にする。208と209の違いも分かる。

 しかし500に野菜ブーツの意味はない。

 
 残念ながら。

 余りに暑いので調子が出ない。



 すごい英雄視。

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