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『彼岸過迄』を読む 4345 田川敬太郎は宝亭でしこたま酒を飲んだのか?

 今回はそんなに深い話ではありません。
 ただ初見では見逃しそうなことなので、小学校八年生を目指すなら是非とも押さえておきたいというくらいの話です。

 焦点を焼点と書く人は少ないので、漱石作品に焼点とあるとつい当て字かと思いこんでしまいかねませんが、当て字ではないよという程度の話です。「ついなんとなく」見逃してしまう、「ついなんとなく」思いこんでしまう、ということで、このような誤読が拡散されてしまいます。これも一種の「書いてあることを読まない」「書いていないことを付け足す」行為です。

 こんなことが書いてありますが、漱石の当て字ってそんなに多くはありません。ただよく調べないとこんなことになってしまいます。

 さて、田川敬太郎は宝亭でしこたま酒を飲んだのか? ですが、これは解りません。初見では、

 彼は寝ながら天井を眺めて、自分に最も新らしい昨日の世界を、幾順となく眼の前に循環させた。彼は二日酔いの眼と頭をもって、蚕の糸を吐くようにそれからそれへと出てくるこの記念の画を飽かず見つめていたが、しまいには眼先に漂ただようふわふわした夢の蒼蠅さに堪たえなくなった。それでも後から後からと向うで独り勝手に現われて来るので、彼は正気でありながら、何かに魅入られたのではなかろうかと云う疑さえ起した。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この「二日酔い」が抽象的な表現なのか、具体的な表現なのか判断できません。いわゆる「田川敬太郎は本郷に着くと下宿の手前に一軒の蕎麦屋を見つけてしこたま酔った」といった記載がありませんから、少しぼんやりしています。漱石の記述法の特徴に

 男は雨の中へ出ると、直すぐ寄って来る俥引きを捕まえた。敬太郎も後れないように一台雇った。車夫は梶棒を上げながら、どちらへと聞いた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ……のように「きっちりきっちりすべての動作を詰め込まないで省いていく」というものがあります。松本恒三や田川敬太郎が俥に乗ったとは書かれていないわけです。しかし俥には乗ったわけです。ただ呼び止めたわけではありません。そういう省略を漱石は、場面や出来事など割と大きなものに関しても平気でやってきます。
 省略というのは書く方もなかなか難しいのですが(やってみると解ります。なかなかできません)、読む方もうっかりするとふるい落とされます。何しろ書いてないんですから、読めません。読めませんがよまなくてはなりません。俥は呼び止めたが、「乗った」と書いていないなら乗っていないんじゃないかと読んでいてはシュールになってしまいます。ここはロジックで読んでいくことが必要です。
 漱石は時々ふるい落とさんばかりの書き方をします。「二日酔い」の前には、こう書かれています。

 眼が覚めると、自分の住み慣なれた六畳に、いつもの通り寝ている自分が、敬太郎には全く変に思われた。昨日の出来事はすべて本当のようでもあった。また纏りのない夢のようでもあった。もっと綿密に形容すれば、「本当の夢」のようでもあった。酔った気分で町の中に活動したという記憶も伴なっていた。それよりか、酔った気分が世の中に充ち充ちていたという感じが一番強かった。停留所も電車も酔った気分に充ちていた。宝石商も、革屋かわやも、赤と青の旗振りも、同じ空気に酔っていた。薄青いペンキ塗の洋食店の二階も、そこに席を占めた眉の間に黒子のある紳士も、色の白い女も、ことごとくこの空気に包まれていた。二人の話しに出て来る、どこにあるか分らない所の名も、男が女にやる約束をした珊瑚の珠も、みんな陶然とした一種の気分を帯びていた。最もこの気分に充ちて活躍したものは竹の洋杖であった。彼がその洋杖を突いたまま、幌を打つ雨の下で、方角に迷った時の心持は、この気分の高潮に達した幕前の一区切りとして、ほとんど狐から取り憑かれた人の感じを彼に与えた。彼はその時店の灯で佗しく照らされたびしょ濡れの往来と、坂の上に小さく見える交番と、その左手にぼんやり黒くうつる木立とを見廻して、はたしてこれが今日の仕事の結末かと疑ぐった。彼はやむを得ず車夫に梶棒を向け直させて、思いも寄らない本郷へ行けと命じた事を記憶していた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここで繰り返されている「酔った気分」というものがその当時のリアルな感覚ではなく、後に染められた作られた記憶であるということは何となく解ります。しかし「酔った気分」というのは余りにも曖昧で飲酒のシーンがないものですから、この気分の重なったところを「二日酔い」と抽象的な表現にしたのかとつい考えてしまいます。

 ところが、

 彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着よぎを剥って跳ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室に上った。そこの窓を潔よく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力めて実際的に思慮を回らした。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 繰り返し「二日酔い」が使われるので飲酒はほぼ確定でしょう。村上春樹さんは二日酔いの経験がないそうです。何をもって二日酔いとするか、その症状はまちまちでしょうが、田川敬太郎の二日酔いはがんがん頭痛がするようなものではなく軽症のようです。ともかく肉体的に刺激が必要だったようなので、これは昨晩どこかで飲んだ、と読んでいいでしょう。

 宝亭は、

 彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒の広告写真を仰ぎながら、肉刀と肉叉を凄すさまじく闘かわした数度の記憶さえ有っていた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ……とあるように酒も提供する西洋料理屋です。田川敬太郎は、

 彼は自分の注文を通したなり、ポカンとして麺麭に手も触れずにいた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ……と何を注文したのか定かではありませんが、既にパンが提供されているので一膳めしというわけにはいかない店なのでしょう。しかし標的がいつ帰るのか解らないのにコース料理を注文する馬鹿もないでしょうから、アラカルトで簡単に見繕った筈です。

 もう少し聞いている内にはあるいはあたりがつくかも知れないと思って、敬太郎は自分の前に残された皿の上の肉刀と、その傍に転がった赤い仁参の一切れを眺ながめていた。女はなお男を強しいる事をやめない様子であった。男はそのたびに何とかかとか云って逃のがれていた。しかし相手を怒おこらせまいとする優しい態度はいつも変らなかった。敬太郎の前に新らしい肉と青豌豆が運ばれる時分には、女もとうとう我を折り始めた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 田川敬太郎の野郎、生意気に肉なんか食っていますね。人参のグラッセかなんか添えられたステーキでしょうか。そしてさらに肉、そして青豌豆とはなかなか妙なアラカルトです。

 しばらくして男は「御前御菓子を食べるかい、菓物にするかい」と女に聞いた。女は「どっちでも好いわ」と答えた。彼らの食事がようやく終りに近づいた合図とも見られるこの簡単な問答が、今までうっかりと二人の話に釣り込まれていた敬太郎に、たちまち自分の義務を注意するように響いた。彼はこの料理屋を出た後の二人の行動をも観察する必要があるものとして、自分で自分の役割を作っていたのである。彼は二人と同時に二階を下りる事の不得策を初めから承知していた。後れて席を立つにしても、巻煙草を一本吸わない先に、夜と人と、雑沓と暗闇の中に、彼らの姿を見失なうのはたしかであった。もし間違いなく彼らの影を踏んで後あとから喰付いて行こうとするなら、どうしても一足先へ出て、相手に気のつかない物陰か何かで、待ち合せるよりほかに仕方がないと考えた。敬太郎は早く勘定を済ましておくに若しくはないという気になって、早速給仕ボーイを呼んでビルを請求した。(夏目漱石『彼岸過迄』)


 そしてやはり宝亭の場面は何度読み返しても飲酒の気配がありません。むしろ田川敬太郎は探偵に集中している様子で、酒を飲む余裕が感じられません。

 すると必然、「田川敬太郎は本郷に着くと下宿の手前に一軒の蕎麦屋を見つけてしこたま酔った」ようなことがあったんじゃないかと思われてきます。

 今の若い人だと「コンビニでストロング系買って飲んだんじゃないですか?」と言うかもしれませんが、当時はまだコンビニがないのです。この記事を昭和に書いたら「自販機で熱燗のカップ酒飲んだと思うよ。濡れて寒いから」と反論されるかもしれませんが、自販機で熱燗のカップ酒が売られていたのは昭和のごく短い時期だけですから。

 こうしたことが未来の人にはもうちんぷんかんぷんになりかねないので、本当に細かいところですが書いてみました。

 田川敬太郎は宝亭でしこたま酒を飲んだのか? → いいえ。恐らく探偵の出来に満足できないうっぷん晴らしに本郷(下宿近く)で酒を飲んだ、ということが省略されているんだと思います。

 気が付いていました?

 本当に気が付いていましたか?

 [余談]

 谷崎潤一郎の『痴人の愛』に「築地の精養軒」というものが出て來る。これは「上野の精養軒」のことだろうと勝手に解釈したが、正解だろうか。主人公はそこから田町の駅まで歩く。築地と上野、まあ近いと言えば近い。しかし「築地の精養軒」とは言わないなあ。「築地の西郷さん」だと何のことなのか分からなくなるから。

 いや、だから、

 谷崎潤一郎は信用でけへんのよ。



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