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林順治の『漱石の秘密』をどう読むか⑧ それは江藤淳だ

 

まさかそんな記憶にすり替わるとは


 人間の記憶などあてにならないものである。大抵のことは忘れられてしまう。しかしそこは忘れないだろうということもある。実はここまで私は林の間違いをすべて拾ってきたわけではない。おかしなところは随所にある。そこはまあ、「へえ、こんな勘違いもあるんだな」と流してきた。しかしさすがにこれはありえないだろうという所に立ち止まってきただけだ。

 手首をきって自殺した『心』のKや、喉を描き切って殉死した乃木大将のように自殺した先生や、『坊っちやん』の主人公が「そんなら指を切って見ろ」と言われて親指を切ってみせる話などから、漱石が刃物(刀)を象徴する恐怖、暴力と死に対する並々ならぬ関心を抱いていたことがわかる。

(林順治『漱石の秘密』論創社 2011年)

 ここはできるだけ正確に引用しようとして、この書き手に関して完全にリスペクトがなくなるところである。新仮名遣いの『坊っちゃん』か旧仮名遣いの『坊つちやん』かは好みの問題であるが、折衷は「間違い」と言ってよい。三島由紀夫も最後まで新仮名遣いに馴れなかったので、昔の人が多少間違うのは仕方がないとして、この折衷はない。

 そしていちいち書かなくてもたいていの人はお分かりであろうが、「刃物を象徴する恐怖、暴力」というところは普通は逆で「刃物に象徴される恐怖、暴力」である。恐怖や暴力はそもそも抽象的な概念なので形を持たない。そこに形を与えるのが刃物なので「刃物に象徴される恐怖、暴力」となるわけで「刃物を象徴する恐怖、暴力」は何ともおかしい。

 まだおかしなところがある?

 あるかなあ?

 切ったのは親指ではなく親指の甲?

 それもそうだけれど、この一文の趣旨ね、そこがまあ違うよね。『坊っちゃん』の「おれ」のエピソードにはむしろ「恐怖感のなさ」が感じられる。刃物に対する鈍感さがある。

 それから「喉を描き切って殉死した乃木大将のように自殺した先生」などというものは存在しないので、前提そのものがおかしい。
 そもそも乃木希典の死を「喉を描き切って殉死した乃木大将」などと表現したのは彼が初めてではなかろうか。

「自分はこれまで多くの自殺を見てきたが、これほど武士的な自決は初めてで、実に模範的なものである」と断定し、「二階八畳敷で夫人を左にして将軍は、まず上衣を脱ぎシャツのみとなって正座し、腹下左の横腹より軍刀を差込み、やや斜め右に八寸切り裂きグイと右へ廻し上げられた。‥‥これは切腹の法則に合い、実に見事なものだった。而して返しを咽喉笛にあて、軍刀の柄を畳につき身体を前方に被せ首筋を貫通、切先六寸が後の頭筋に出て、やや俯伏になっておられた。これに対し夫人は、紋付正装で七寸の懐剣をもち咽喉の気管をパッと払い、返しを胸部にあて柄を枕にあて、前ふせりになって心臓を貫き、懐剣の切尖が背部肋骨を切り、切先は背中の皮膚に現れんとしていた。しかるに膝を崩さず少しも取り乱したる姿もなく。鮮血淋漓たる中に見事なる最期で、見るものの襟を正させた」

 これが赤坂警察署長の公式の発表である。この通りであれば乃木希典の死は正式な切腹の作法に則って行われているので「切腹して死んだ」と言って差し支えない。「喉を描き切って」死ぬのは三島由紀夫の『憂国』に描かれた武山麗子である。

 先生は、

 私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。

(夏目漱石『こころ』)

 あくまで乃木希典に批判的なので刃物は使わなかったのではないかと思われる。ではどうやって死んだのかというところは明らかではない。

 さて、

 もうおかしいところはないよね?

 まさかね、さすがにもうないよね。

 漱石にとって刃物は小刀細工。そういうことだよね。

[余談]

 漱石論ってどれだけボケられるかの競争だったのかな?

 一郎の三択を含めて。

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