蒲の穂はなびきそめつつ蓮の花
北原白秋にはたくさん蓮が出てくる。
芥川は三四郎池でピンクの蓮の花を見ていた筈だが、『蜘蛛の糸』では白い蓮を描く。白秋の影響はなかろうか。ないな。芥川は赤や白や金色の、さまざまな蓮を書いている。
この句は、
……が元だろうか。
おお、漱石。
蒲の穂はなびきそめつつ蓮の花
この句は「蒲の穂」と「蓮の花」の取り合わせ、そして「なびきそめつつ」と恰も「蒲の穂」が雄蕊を「蓮の花」の雌蕊にこすりつけようとするかのような異種交配の生々しい仮想、芥川龍之介の性欲の仮託に肝があろう。明治の句は、そうした取り合わせはしない。蓮なら蓮、蒲の穂なら蒲の穂を詠む。二つとも夏の季語なので、「季重なり」となるからだ。
ただし、
こうした否定派の意見も、
何が何でも駄目だというわけではなく、
あくまでも中身次第ということである。
この句も共に水草を詠んで喧しいような気がしないではないが、この二つの取り合わせがある意味宿命的なものであることは確かだ。(この記事を最後まで読めば解かる。)
この句も下島医師が見逃しているのは不思議である。
青空文庫で濁っているのはこの二人と川端茅舍くらいなものである。影響は……。ないな。
蒲の穂はなびきそめつつ蓮の花
この句は午前中に詠まれたものであろう。蓮の花は明治の句にある通り早朝に咲き、お昼には閉じてしまう。我鬼は午前中からむらむらしていたのだ。まるで満員の通勤電車でむらむらしているサラリーマンのように。
それなら早く伊香保あたりに静養にでも行った方がいい。
あくまでも静養に。
蒲の穂ははちすの花のあさもよひ
蒲の穂をもよほしがほの池見草
朝影に蒲の穂なぶる蓮華かな
水草のともに濡るるは蕊の先
【余談】
芥川の『河童』には「隣りの奥さんのカツレツが清潔に見える」という話も出て来なければ「カツレツ」の文字もない。「カツレツ」の文字は『歯車』にあるがただのメニューである。『河童』には「我々人間に比べれば、河童は実に清潔なものです」という文言がある。「志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である」という文言が『文芸的な、余りに文芸的な』に出てくる。「同じ水墨を以てしても、日本の南画は支那の南画ではない。のみならず僕等は往来の露店に言葉通り豚カツを消化してゐる」という文言もある。この辺りのことがごっちゃになっているのかもしれないが、いずれにせよこのネタはガセである。
100円の記事も買わない現実。
それで何に辿り着けるのやら。