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芥川龍之介の『彼 第三』をどう読むか⑤ そんな人はいない

 それにしても私はうっかりものだ。しっかりしていない。がっかりだ。何故がっかりかというと、豊島与志雄 訳『ジャン・クリストフ』が1920年刊行、後藤末雄訳も1918年、つまり大正七年刊行であることに気が付かないでいたのだ。『ジャン・クリストフ』は1904年から1912年、つまり大正元年にかけて書き継がれる大作で、

「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で善いから。」
「どんな本を?」
「天才の伝記か何かが善い。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも旺盛な本が善い。」

(芥川龍之介『彼』)

 この明治末期の「ジァン・クリストフ」は出た早々のフランス語の第一巻なのだ。つまり『彼』は「ジァン・クリストフ」全十巻を読み終わらないで死んだのではなく、「ジァン・クリストフ」全十巻を「僕」が揃えていたかどうかすら怪しい時期にこの世を去っていたことにはならないだろうか。

 そして、

 ところが、高等学校を卒業する前後から、どういふものか趣味や物の見方に大きな曲折が起つて、前に言つたワイルドとかゴーチエとかといふ作家のものがひどくいやになつた。ストリンドベルクなどに傾倒したのはこの頃である。その時分の僕の心持からいふと、ミケエロ・アンヂエロ風な力を持つてゐない芸術はすべて瓦礫のやうに感じられた。これは当時読んだ「ジヤンクリストフ」などの影響であつたらうと思ふ。

(芥川龍之介『愛読書の印象』)

 この「ジヤンクリストフ」もそういうことになる。そう気が付いてみて改めて、

ジアン・クリストフの中に、クリストフと同じやうにベエトオフエンがわかると思つてゐる俗物を書いた一節がある。わかると云ふ事は世間が考へる程、無造作に出来る事ではない。

(芥川龍之介『雑筆』)

こんな芥川の言葉が痛い。私にはなに一つ解っていなかった。

まあ、そんなむづかしい顔をするのは、よし給へ。それよりその珈琲でものんで、一しよに出かけよう。さうして、あの電燈の下で、ベエトオフエンでも聞かう。ヘルデン・レエベンは、自動車の音に似てゐるから、好きだと云ふ男が、ジアン・クリストフの中に、出て来るぢやあないか。僕のベエトオフエンの聞き方も、あの男と同じかも知れない。事によると、人生と云ふものの観方もね。……

(芥川龍之介『創作』)

 そんな風に慰められると余計辛い。私は馬鹿だ。

 彼は中学を卒業してから、一高の試験を受けることにした。が、生憎落第した。彼があの印刷屋の二階に間借りをはじめたのはそれからである。同時にまたマルクスやエンゲルスの本に熱中しはじめたのもそれからである。僕は勿論社会科学に何の知識も持っていなかった。が、資本だの搾取だのと云う言葉にある尊敬――と云うよりもある恐怖を感じていた。彼はその恐怖を利用し、度たび僕を論難した。ヴェルレエン、ラムボオ、ヴオドレエル、――それ等の詩人は当時の僕には偶像以上の偶像だった。が、彼にはハッシッシュや鴉片の製造者にほかならなかった。

(芥川龍之介『彼』)

 そして今更気がついたふりをしてみる。「彼」の得意はドイツ語で、「僕」の得意はフランス語なのに、「僕」は病人の「彼」に、しかも一高を落ちて六高に都落ちした「彼」に、わざわざフランス語の「ジヤンクリストフ」を読ませようとしていないかと。

 そのことを芥川は「彼」に、

「革命とはつまり社会的なメンスツラチオンと云うことだね。……」

(芥川龍之介『彼』)

 と云わせることでわざわざ念押ししているのに、私は今の今迄全然気が付かないでいた。そんなうっかりだからいまだに『彼 第三』が見つけられないでいるわけだ。

 そう気が付いてみれば「僕」は「バクーニン」を「バクニイン」と呼んだ「彼」にもどこか上滑りなところを見つけていなかっただろうか。

 「バクニイン」などと云う人はいない。挫折した革命家の夢を食べる獏を委任された獏の飼い主、獏委任ならいるかもしれないが。





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