岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する148 夏目漱石『道草』をどう読むか24 朝はしていない
夏目漱石と芥川龍之介作品には「書いてあることと書いていないこと」で構成されているものが多いという事を書いた。もう一つこの二人の作品に共通しているのは、スケールやフレームで別様に解釈できるということだ。
昨日健三が「己はまだ寐る訳に行かないよ」とセックスをしないように見せかけているところで漱石の頑固さを笑ったが、案外その意味、フレームの置き方が伝わっていないのではなかろうか。
子供が生まれる、生まれないで『道草』と『門』が対になるとしたら、『こころ』と『道草』は仲の良さそうな夫婦がセックスをしないで、仲の悪そうな夫婦がセックスをする話という対をつくる。『こころ』ではいかにもしてそうでしていない。一方『道草』はいかにもしてなさそうでしている。このいかにもしてなさそうが徹底しているから頑固で笑えるところだ。
己の頭は悪くない
神経衰弱という内的要因から講義が行き詰る『行人』の一郎に対して、健三は周囲のあれこれという外的要因で講義の準備を滞らせてしまう。忙しい夜に島田ごときに押しかけられ無意味な話で時間を取られ、神経を使わされてすり減っている。しかし漱石はここで神経衰弱とは書かない。この「己の頭は悪くない」に岩波は注を付けないが、『行人』との比較においては注解があってしかるべきところだ。
ここは単に「馬鹿ではない」という意味で「己の頭は悪くない」と書かれている訳ではない。
この「頭が少し悪いもんだから」とは、神経衰弱で頭の調子が悪いという程度の意味だ。鏡子夫人によれば漱石の「あたまが悪くなる」まえには、酒に酔っぱらったように顔が真っ赤に上気したそうである。
しかし『道草』の「己の頭は悪くない」は微妙だ。それは「牛の脳味噌で一杯詰っている」という、いわゆる「おつむが足りない」ということはないという意味にもとれるし、アイハブコントロールのような意味にもとれる。いずれにせよ「頭が悪い」という言い回しに夏目家独特の意味があることを前提にして解釈しなくてはならない。
普通の人の断案
この健三の一連の動作、そして考えは普通ではない。呼吸を確かめる、というところまではぎりぎりわからないでもない。それでもこの場面がビデオテープにでも撮られてネットに上げられていたら「怪しすぎる」と散々揶揄われるだろう。『それから』の「念のため、右の手を心臓の上に載せて」も「念のためって何だ、あんたは心臓が止まっても生きられるのか?」と突っ込みたくなるところだが、この「細君の名を呼んで見なければまだ安心が出来ない」の「まだ」がさらに解らない。何が「まだ」? それから「細君の肩へ手を懸けて、再び彼女を揺すり起そうとした」は、さすがにおかしいだろうと思う。このおかしいとは真面ではない、精神異常ではないかという意味だ。
実際こうした動作を取らなかった健三に対して話者は「彼は漸く普通の人の断案に帰着する事が出来た」として一瞬彼が「普通の人」ではなかったように語っている。ここで「己の頭は悪くない」の意味が微妙になってくる。
彼女の実在を確かめなければ承知しなかった
実在は「あれ」で確かめているだろと突っ込ませないために漱石は「彼は正体なく寐入った細君を、わざわざ揺すり起して見る事が折々あった」と如何にも健三の行動が異常であるかのように描く。
しかしよくよく読めばここで細君は「もっと寐かして置いてくれれば好いのにという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開く」のであり「何でこんな時間に起こすのという訴えを疲れた顔色に現わして重い瞼を開く」のではないのだ。
つまり健三には細君を起こす正当な理由があることを漱石は書いているのだ。「もっと寐かして置いてくれれば好いのに」ということは、健三は度々こうして細君を起こし、こんにゃろめ、こんにゃろめ、まいったかこら、どうだ、どうだ、とやっていたということではなかろうか。
また床の中に這入ったのである
下女からしてみると自分を起こした奥さんがまた床に戻るのを見て「え? 今日は朝から?」と思うだろう。この書きようからは「毎朝このようにしていた」とは受け取れない。どうも「この日は珍しく」的な書き方だ。そう書かれてはいないが、そう受け取れるように書いている。
下女の下衆な感繰りに反して、細君は珍しく寝不足だっただけである。夜中に健三に揺すり起こされなかったのに?
ここは「細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた」という三十章の説明がそのまま具体的に表れているところだと捉えてみると、むしろ「細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた」というからくりのうちに「彼は正体なく寐入った細君を、わざわざ揺すり起して見る事が折々あった」という種明かしが見えてくる。
つまり健三は夜中まで予習をしてから、寝ている細君を揺り起こし、こんにゃろめ、こんにゃろめ、まいったかこら、どうだ、どうだ、とやっていたのに、細君は話者に「細君はよく寐る女であった。朝もことによると健三より遅く起きた」と言われてしまうのだ。
これでは細君はどうも気の毒である。下女も変な感繰りは止めた方がいい。
第三者の眼に、自分たちがあるいは変に映りはしまいか
下女も下女だ。奥さんと旦那さんは朝なさるんですかという顔で給仕していて、健三はそのことに気が付いていないが、話者はその「第三者の眼」に気がついて言い訳をしていないか。
ここには第三者は下女しかいない。
まあ読者が見ているが、読者は高等出歯亀ではないので夜の夫婦生活には関知しない。ただ早く起こされる下女だけが朝の夫婦生活に敏感になっているだけだ。話者も下女の第三者の眼なんてそんなに気にしなくてもいい。下女は別に誰かに話したりnoteに記事を書いたりはしないだろう。
突然細君の病気を想像する事があった
ここに講義に集中できない「頭の悪い」健三が現れる。生徒からすると「何だい、突然考えこんじゃって、ウィトゲンシュタインの真似かよ、これ英語の講義だぜ」と言ったところであろうか。いや当時はまだウィトゲンシュタインの講義の様子などは伝わっていまい。生徒は矢張り神経衰弱なのかも知れないと疑うのではなかろうか。生徒は生徒でそれぞれが大抵くだらないことを考えながら講義を聴いていた筈だ。昼飯に何を食おうかとか、十二番目のメルセンヌ素数は何かとか。
健三は細君の病気を心配しているが、その健三がどうも、山本監督に言わせれば「ほとんどビョーキ」である。
嘘をつくな。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?