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谷崎潤一郎のどこが近代文学なのか⑨ 信用できないところがうまく利用できている

 谷崎潤一郎作品の中には「作家が小説を書くこと」「書かれた小説の作者が自分であること」という自明なからくりについて、あえて疑問を呈するような作品がいくつかある。いや実際には「作家が小説を書くこと」「書かれた小説の作者が自分であること」が当たり前になるのは戦後派以降のことで、明治初期やそれ以前においてはけして自明なことなどではないのだが、谷崎の疑問は例えば「門下生が代筆する」とか「弟子の作品を盗作する」といったようなところにあるのではなく、今まさに書いている自分が、書かれている小説の作者であるという根源的なところに向けられている。

 それは別の言い方をすれば、何をどう書けば「作家の私生活の赤裸々な告白」から逃れられるかという問いの追求でもあったかのように思われる。しかし『人間が猿になつた話』を書いてさえ、谷崎潤一郎はその作者であることから逃れられなかった。そこにはまだ「作家の私生活の赤裸々な告白」があるのだと(読めば)読めてしまうのだ。

 また谷崎潤一郎作品の多くは「頭の可笑しい男」、あるいは「異常者」を描いてきた。しかし谷崎潤一郎自身は佐藤春夫が見抜いたとおり、むしろ真っ当な人間であり、「頭の可笑しい男」でも「異常者」でもない。

 そのことはこの、『小さな王國』に良く現われている。

 ここにはむしろマゾヒストに対する軽薄な差別意識さえある。マゾヒストはけして頭がおかしいのではない。そのことを谷崎潤一郎は理解していなかったのではなかろうか。ただ猫好きであるという程度のマゾヒストには到底理解できない真のマゾヒストの世界がある。冷静に人種差別を論じ、家畜人として原爆さえも受容する沼正三と谷崎潤一郎のマゾヒストとしての資質には根本的な違いがあるのだ。

 谷崎は多くの猫好きと同じ程度のマゾヒストである。その程度の人はツイッターを見る限り異常とは呼べないだろうと思う。

 谷崎はついつい「大正の聖代」などと書いてしまうほど真面である。それなのに作中に繰り返し「小太りな男」を登場させなくてはならないくらい、今まさに書いている自分が、書かれている小説の作者であるという問題にとらわれていた。いや、今まさに小説に書かれている自分が、この小説の作者なのではないかと、自分の中には何か格別猟奇的なところがあり、異常なマゾヒストであり、悪魔なのではないかと、そう思いこみたい願望が捏造されたものなのか根源的なものなのか、そう疑い続けていたのではなかろうか。

 例えばこの『柳湯の事件』はとても真面な人間が書いたとは思えない作品だ。真面な人間が小手先でユーモアを弄んだとは思えない作品だ。

青年は湯船の中で足裏で女の死体を踏んでしまう。それは青年が一緒に暮らしている瑠璃子という女の死体である。家に帰ってみると瑠璃子はちゃんといる。それから青年は四晩続けて柳湯にいく。その度に足の裏に瑠璃子の死体が沈んでいる。

 思い切って引き上げてみると確かにそれは瑠璃子だった。瑠璃子の死体を湯に沈めて、大急ぎで湯から出て服を着替えていると、「人殺し」だと騒がれ始める。青年はなんとか逃げ出して、そのまま弁護士S博士の事務所を訪れ、事の次第を話す…。

 一言で言えば支離滅裂。理屈では説明できない。供述としては認められない。頭がおかしい。しかし、私はこれまで谷崎作品をいくつか読んできて、どうも谷崎の中の変態性欲とか性的嗜好ではないもの、むしろ谷崎自身の中には見当たらないが、他人のどこかには見当たるものを、谷崎がお勉強して取り入れてきたのではないかと疑っている。

 この作品でも性欲と交換可能な記号として美食が持ち出される。学校に忍び込み、ホイッスルを盗んだという事件が昨日報じられた。これはフェティシズムと呼ばれる頓智である。何かを何かの象徴と見做すこと、この抽象化能力によって人間は言語的世界を獲得した。谷崎は明らかに何かと何かが交換可能であることを試している。『美食俱楽部』では、美食の芸術を探究する。いわば思考実験である。

 そうした努力が、このいかにも私小説めいたかつ幻想的な作品で花を咲かせた。「たとえ神に見捨てられようと、私は私自身を信じる」と悲壮な覚悟で精進してきた谷崎潤一郎は、ようやくこの『母を戀ふる記』で咲いたんじゃないのかな、というのが私の正直な感想である。生意気で申し訳ない。私はこれまで読んできたどの谷崎作品より、この『母を戀ふる記』が好きだ。

 この小説を読んで「谷崎の母を思う気持ちに感動して泣いた」などと素直な感想を書いていた人がいた。いや、あなたは何も悪くない。しかしこの虚々実々は見事としか言いようがないのだ。谷崎は「作家が小説を書くこと」「書かれた小説の作者が自分であること」という自明なからくりについて、あえて疑問を呈してきた。いや、だからこれでいいんじゃないの、というのが私の感想である。あなたは一切信用できないけど、その信用できないところがうまく利用できているんじゃないの、と思う。

 三島由紀夫は『金閣寺』において、溝口にカルモチンと小刀そして菓子パンと最中を買わせる。

 いずれ菓子パンは、私の犯罪を人々が無理にも理解しようと試みるとき、恰好な手がかりを提供するだろう。人々は言うだろう。
「あいつは腹が減っていたのだ。何と人間的なことだろう!」
 (三島由紀夫『金閣寺』)

 これが三島由紀夫だ。この菓子パンがなければ『金閣寺』はただの痛い話に堕ちていたかも知れない。『母を戀ふる記』は乳母から教わった新内節で閉じる。これはけして母親を偲ぶエッセイみたいなものではありえないのだ。これが谷崎だ。近代文学であろうがあるまいが、そんな事とは一切関係なく、これは近代文学2.0に値する作品だ。





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