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『三四郎』の謎について26 どうすればそんなことが出来るのか?

 今回は短めにやります。さして深い内容ではありません。

 皆さん『三四郎』の読後、直ぐに変だと感じませんでした?

 野々宮さんは、招待状を引き千切って床の上に捨てた。やがて先生とともにほかの絵の評に取りかかる。与次郎だけが三四郎のそばへ来た。
「どうだ森の女は」
「森の女という題が悪い」
「じゃ、なんとすればよいんだ」
 三四郎はなんとも答えなかった。ただ口の中で迷羊、迷羊と繰り返した。(夏目漱石『三四郎』)

 ここです。ここは「呟いた」のか「囁いたのか」解らないわけですが、「口の中で」は変じゃないですか?

 やってみてください。

 私もやってみましたが、口を閉じると言えないんですね。言葉は口に出すものと云いますが、実際には口から出すものなんですよね。「口の中で」にはならないんです。

 無論この場面はなぞりで、

「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。(夏目漱石『三四郎』)

 この「口の内で」も無理ですね。実際息が漏れています。

 これは何なのだろうと思いませんでしたか?

 仮に『三四郎』を芝居にかけるとしたらどうしましょう。役者には口を閉じさせて、その役者の声でナレーションを入れますか。「ストレイ・シープ」と。

 ただ実際にはどうだったのか、漱石が何を云わんとしているのか、ちょっと分かりませんね。『三四郎』の中ではほかに、

 門内をちょっとのぞきこんだ三四郎は、口の中で「ハイドリオタフヒア」という字を二度繰り返した。この字は三四郎の覚えた外国語のうちで、もっとも長い、またもっともむずかしい言葉の一つであった。意味はまだわからない。広田先生に聞いてみるつもりでいる。(夏目漱石『三四郎』)

 という場面でも出て來るのですが、これは「アール音」の発声を強調する意図かなと、口蓋を鳴らすイメージなのかとちらっと考えてみたのですが、そもそも漱石には、

たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。(夏目漱石『草枕』)

 とか、

 子供はよくこの鈴の音で眼を覚さまして、四辺を見ると真暗だものだから、急に背中で泣き出す事がある。その時母は口の内で何か祈りながら、背を振ってあやそうとする。すると旨く泣なきやむ事もある。またますます烈しく泣き立てる事もある。いずれにしても母は容易に立たない。(夏目漱石『夢十夜』)

 という具合に「口の内で」という表記がほかにもあるのですね。それで確認してみると、少なくとも「口の内で読む」という表現は正宗白鳥、「半分口の内で言う」は坪内逍遥、「口の内でいう」は山田美妙、戸川秋骨、小山内薫までは使っていたようです。また「口の中でいう」は小栗風葉、森田草平、豊島与志雄までは使っていました。

 そうした用例を見ていくとどうやら「もぐもぐいう」という程度の意味ではないかと思われます。

 なんだ、謎でもなんでもないじゃん、と思われた方、問題は此処からです。

「ちょっと拝見」
「これ? これまだできていないの」とかきかけを三四郎の方へ出す。なるほど自分のうちの庭がかきかけてある。空と、前の家の柿の木と、はいり口の萩だけができている。なかにも柿の木ははなはだ赤くできている。
「なかなかうまい」と三四郎が絵をながめながら言う。
「これが?」とよし子は少し驚いた。本当に驚いたのである。三四郎のようなわざとらしい調子は少しもなかった。
 三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。どっちにしても、よし子から軽蔑されそうである。三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。(夏目漱石『三四郎』)

 これはどうやったらいいんでしょうか。「腹の中で赤面した」って言っても腹の中に顔面はありませんよ。

 近松秋江に「腹の中で歎息してゐた」「私は腹の中で勃然となつた」みたいな表現がある外は、殆ど「思う」「笑う」くらいです。一人叫んでいる人がいましたが、後悔したり、ひやりとしたり、あるいは「彼は一二度腹の中で舌打をした。」と云った表現をするのは漱石です。

腹の中で赤面した」は外に見つかりません。これがどういう状況なのか、あれこれ考えてみましたがこれという答えはありません。色々調べていくうちに解ったことは、ただ「腹の中」という言葉を漱石がやたらと使うということです。

 このシリーズの中で話者が独特の視座を持ったり、身体性を獲得したりする不思議を指摘しましたが、ここでは腹の中にバーチャルな顔面が現れたことになります。これは「腹の中」という言葉をやたらと使ううちに腹の中にバーチャル空間が出来上がった結果と云うことでしょうか。

 ちょっと自分でやろうとしましたが、頭の中でしかできませんでした。しかし頭の中で赤面する人もいないんじゃないか、なんならそのまま赤面してしまうのではないでしょうか。


[余談]

三四郎は元来あまり運動好きではない。国にいるとき兎狩りを二、三度したことがある。それから高等学校の端艇競漕の時に旗振りの役を勤めたことがある。その時青と赤と間違えて振ってたいへん苦情が出た。もっとも決勝の鉄砲を打つ係りの教授が鉄砲を打ちそくなった。打つには打ったが音がしなかった。これが三四郎のあわてた原因である。それより以来三四郎は運動会へ近づかなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 ここを読んで、

三 四郎は東京のまん中に立って電車と、汽車と、白い着物を着た人と黒い着物を着た人との活動を見て、こう感じた。けれども学生生活の裏面に横たわる思想界の活動には毫ごうも気がつかなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 ここを思い出して、やたらと青(緑の意味の)と赤が出て來るが殆どの色が三四郎の感覚ではなく、話者の説明であることに気が付いて、絵の展示会が丹青会であることに気が付いて……丹青って赤と青じゃないかと気が付いて……これ、三四郎が「着物の色はなんという名かわからない」のは色覚異常じゃないかと精査したら、

 ……違った。話者の説明では片付けられない記述が一か所だけあった。

 紛らわしいことをするなあ。


 店主より?











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