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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか27 それは単なる「ミス」だった
日本文化の土俗的な、あるいは伝統的なゆるい汎神論は、時に言葉遊び的にありふれたものを聖化してしまう。古くはAKB48の「神セブン」から、最近目にしたケースでは「から揚げの天才」の「冬の神! カキフライ」といったコピー迄、軽々しく神を持ち出す。まさか本当にカキフライが神だとは信じていないだろうが、このコピーを考えたものは耶蘇教徒ではないことだけは確かで、タルタルソースと別のソースがウスターなのかオイスターなのかも曖昧だ。
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緑いろのタクシイはやっと神宮前へ走りかかった。そこには或精神病院へ曲る横町が一つある筈だった。
神宮前の精神病院。
どちらにも本当の神はいない。精神とは本来、リビドー、あるいはオルゴンエネルギーのようなものだ。それが日本語で心のようなものにすり替わった。精神とはマイスター・エックハルトの云うような神との合一を意味しない。ただたまたまそういう文字があてられているというだけだ。それは心の聖化ではない。
聖化とは、例えばアイドルは排泄しないというような意味で、天才作家はミスをしないと決めつけることである。天才作家にも少なからず勘違いやミスはあろう。しかし我々が避けねばならぬのは、天才作家はミスをしないと決めつけることではなく、天才作家がミスをしているかどうかを見極めることである。
たとえば谷崎潤一郎が『刺青』で「紂王の寵妃、末喜」と書いたとして、もし続いて書かれた『麒麟』に「夫人の顙は妲己に似て居る。夫人の目は褒娰に似て居る」という台詞がなかったとしたら、それはミスである可能性もなくはない。
しかし後の谷崎作品に現れる漢籍の博学ぶりからしても、また芝居の題材としての「末喜」の認知度からしても、理由は曖昧乍らどうも谷崎はここで敢えて取り違えていると見るべきであろう。
同様のことが『歯車』における「韓非子」の扱いにも言える。
僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用いた「寿陵余子じゅりょうよし」と云う言葉を思い出した。それは邯鄲の歩みを学ばないうちに寿陵の歩みを忘れてしまい、蛇行匍匐して帰郷したと云う「韓非子」中の青年だった。今日の僕は誰の目にも「寿陵余子」であるのに違いなかった。
この「寿陵余子」が「韓非子」ではなく「荘子」由来の言葉であることは右クリックから五秒で解る。
![](https://assets.st-note.com/img/1674086191976-qfXEZMLqag.png?width=800)
が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ジョオジらしい騎士が一人翼のある竜を刺し殺していた。しかもその騎士は兜の下に僕の敵の一人に近いしかめ面を半ば露わしていた。僕は又「韓非子」の中の屠竜の技の話を思い出し、展覧室へ通りぬけずに幅の広い階段を下って行った。
この「屠竜の技」が「韓非子」ではなく「荘子」由来の言葉であることは右クリックから二秒で解る。
あれ?
ついさっき同じような事を書かなかっただろうか?
ちょっと画面を上にスクロールしてみよう。「冬の神! カキフライ」いや、そんなに上ではない。
なるほど、同じような事を書いている。そもそも「荘子」は魏晋頃の偽作と考えられている。ん、これもどこかで……。
「麒麟はつまり一角獣ですね。それから鳳凰もフェニックスと云う鳥の、……」
この名高い漢学者はこう云う僕の話にも興味を感じているらしかった。僕は機械的にしゃべっているうちにだんだん病的な破壊慾を感じ、堯舜を架空の人物にしたのは勿論、「春秋」の著者もずっと後の漢代の人だったことを話し出した。するとこの漢学者は露骨に不快な表情を示し、少しも僕の顔を見ずに殆ど虎の唸るように僕の話を截り離した。
「もし堯舜もいなかったとすれば、孔子は嘘をつかれたことになる。聖人の嘘をつかれる筈はない」
何かと何かが取り違えられ、聖化が行われている。私は又ここで「微言大義」を始めようとしている訳ではない。
中国哲学用語。一見なんでもない記述のなかに含まれている奥深く重要な意味,あるいは,微妙な表現のなかに隠されている政教に関する主張,のこと。特に『春秋』についていわれる。本来,『春秋』は単なる事件の記録であるが,そのなかには聖王の道がひそんでいるとされた。
しかし「屠竜の技」がそもそも「竜」の不存在を示し、「寿陵余子」がそもそも大げさすぎる作り話としか考えられないことを思えば、後世の偽書である「荘子」と「韓非子」を取り違えるというさして意味があるとも思えない細工は敢えてなされているのだと見做しても良いだろう。何かと何かが取り違えられ、聖化が行われた。あるいは聖人が嘘をつかれた。
前のホテルに帰ったのはもうかれこれ十時だった。ずっと長い途を歩いて来た僕は僕の部屋へ帰る力を失い、太い丸太の火を燃やした炉の前の椅子に腰をおろした。それから僕の計画していた長篇のことを考え出した。それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。僕は火の粉の舞い上るのを見ながら、ふと宮城の前にある或銅像を思い出した。この銅像は甲冑を着、忠義の心そのもののように高だかと馬の上に跨っていた。しかし彼の敵だったのは、――
「嘘!」
僕は又遠い過去から目近い現代へすべり落ちた。
宮城の前にある或銅像とは楠木正成像のことだ。なんの予備知識もなしに見上げると、あれ、と思う人もいなくはないだろう。
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大楠公と呼ばれる楠木正成の再評価はそもそも楠公びいきの長州藩が幕末に活躍したことに由来すると言われている。そして勿論楠木正成の敵は北朝である。しかし北朝に対する呪詛「七生報国」はいつの間にか皇軍兵士の鉢巻きとなった。何かと何かが取り違えられ、聖化が行われた。
芥川はそんなことは書いていない?
しかし彼の敵だったのは、――
「嘘!」
確かに言いさしていて、敵が誰なのかは書いていない。では右クリックで検索してみると良い。この微妙な表現のなかに隠されている政教に関する主張が見えてくることだろう。
芥川は、ここで微妙な言い回しをしている。
それから僕の計画していた長篇のことを考え出した。それは推古から明治に至る各時代の民を主人公にし、大体三十余りの短篇を時代順に連ねた長篇だった。
過去形ではあるが、その計画は既に断念されたものだとはここでは明言していないのだ。
ちなみに推古天皇は当時天皇号を用いた最古の天皇とされていた。単独のテキストでもない「春秋」の著者が孔子ではないといまさらのように書いてみる。漢学者に「春秋」のいかがわしさを説く「僕」が「荘子」と「韓非子」を取り違えるようないかがわしさが宮城の前にある或銅像にもある。
それは単なるミスではなく、嘘なのだ。
にょろにょろ君は聖人ではない。
[追記]
書簡を読むと単純ミスであったことが確認できた。ご苦労様です。
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