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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する157 夏目漱石『明暗』をどう読むか6⃣お国は戦争していますけど 

殆どプレイじゃないか

 彼はある意味において、この細君から子供扱いにされるのを好いていた。それは子供扱いにされるために二人の間に起る一種の親しみを自分が握る事ができたからである。そうしてその親しみをよくよく立ち割って見ると、やはり男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみであった。例えて云うと、或人が茶屋女などに突然背中を打やされた刹那に受ける快感に近い或物であった。
 同時に彼は吉川の細君などがどうしても子供扱いにする事のできない自己を裕にもっていた。彼はその自己をわざと押し蔵して細君の前に立つ用意を忘れなかった。かくして彼は心置なく細君から嬲られる時の軽い感じを前に受けながら、背後はいつでも自分の築いた厚い重い壁に倚りかかっていた。
 彼が用事を済まして椅子を離れようとした時、細君は突然口を開いた。
また子供のように泣いたり唸ったりしちゃいけませんよ。大きな体なりをして」
 津田は思わず去年の苦痛を思い出した。
「あの時は実際弱りました。唐紙の開閉が局部に応えて、そのたんびにぴくんぴくんと身体全体が寝床の上で飛び上ったくらいなんですから。しかし今度は大丈夫です」
「そう? 誰が受合ってくれたの。何だか解ったもんじゃないわね。あんまり口幅ったい事をおっしゃると、見届けに行きますよ
「あなたに見舞に来ていただけるような所じゃありません。狭くって汚なくって変な部屋なんですから」
「いっこう構わないわ」

(夏目漱石『明暗』)

 読み進めて行くごとに、情報量が増えて行くごとに、ますます二人の関係性が解らなくなる。書かれている範囲のことは何度となく読み返してきて、やはりこの関係性は解らない。
 むしろ津田はマゾヒストで、吉川夫人に支配される快感を求めていて、吉川夫人は吉川夫人で眼下の津田を揶揄うことに快感を覚えている上に、お延まで教育しようとしているサイコパス的な存在であるとでも考えないとこの散らかった言葉は捉えきれない。

 勿論サイコパスという概念は比較的新しいもので、国立国会図書館デジタルライブラリー内では1965年まで見つからない。

 例えば「お延を教育」などという言葉も、精神的な支配、マインドコントロールと新しい言葉に置き換えてこそなんとか「分かったような気がする」というもので、吉川夫人とお延の関係を個人的に親しい上司の妻、個人的に親しい夫の部下の妻とした場合、やはり「お延を教育」はやり過ぎなのだ。

 ただ津田には「茶屋女などに突然背中を打やされた刹那に受ける快感」というものが解る程度のマゾヒズムの素養があるのだろう。それが「男女両性の間にしか起り得ない特殊な親しみ」であるうちはまあ理解できない話ではない。

 しかし「また子供のように泣いたり唸ったりしちゃいけませんよ」と言葉攻めが津田の局部に逼っていくと、受け手の津田のマゾヒズムよりもむしろ、攻め手の吉川夫人の素質の方が際立ってくる。「見届けに行きますよ」とはまさに津田の肛門を見届けそうな感じさえある。なにしろ直接肛門と言わないだけで二人が話しているのは津田の肛門の話なのである。

 確かに津田は後に出てくるように「裸体を見られたいタイプ」である。吉川夫人の言葉はその性質を見抜いているかのように局部に逼っている。いわゆる言葉攻めの恥辱プレイだ。「ほらそこに四つん這いになって汚いけつを見せてごらん。自分で開くんだよ」と言われたい津田と、そのマゾヒズムを嗅ぎ取った吉川夫人がいるようだ。


したいとしか思えない

 往来へ出た津田の足はしだいに吉川の家を遠ざかった。けれども彼の頭は彼の足ほど早く今までいた応接間を離れる訳に行かなかった。彼は比較的人通りの少ない宵闇の町を歩きながら、やはり明るい室内の光景をちらちら見た。
 冷たそうに燦つく肌合はだあいの七宝製の花瓶、その花瓶の滑かな表面に流れる華麗かな模様の色、卓上に運ばれた銀きせの丸盆、同じ色の角砂糖入と牛乳入、蒼黒い地の中に茶の唐草模様を浮かした重そうな窓掛、三隅に金箔を置いた装飾用のアルバム、――こういうものの強い刺戟が、すでに明るい電灯の下を去って、暗い戸外へ出た彼の眼の中を不秩序に往来した。
 彼は無論この渦まく色の中に坐っている女主人公の幻影を忘れる事ができなかった。彼は歩きながら先刻彼女と取り換わせた会話を、ぽつりぽつり思い出した。そうしてその或部分に来ると、あたかも炒豆を口に入れた人のように、咀嚼しつつ味わった
「あの細君はことによると、まだあの事件について、おれに何か話をする気かも知れない。その話を実はおれは聞きたくないのだ。しかしまた非常に聞きたいのだ」
 彼はこの矛盾した両面を自分の胸の中で自分に公言した時、たちまちわが弱点を曝露した人のように、暗い路の上で赤面した。彼はその赤面を通り抜けるために、わざとすぐ先へ出た。

(夏目漱石『明暗』)

 まるで恋人と別れた帰り道のようだ。津田は何ともない様子を装いながら、実は嬲られつつ、その快感に浸りながら……。

 この奇妙な津田の感情そのものには岩波は何とも反応しない。しかし一番解らないのはそこなのではなかろうか。

 ともかくありきたりの関係でないことだけは解る。しかしその類型をなかなか見い出せない。敢えて言えば『三四郎』の三四郎と野々宮よし子との関係が近いと言えば近いのだが、やはり「年上の人妻」という吉川夫人のキャラクターが立ちすぎている。「年上の人妻」に嬲られる快感と書いてみると、それはもう谷崎的なものですらなく、単なる官能小説が何かのようになってしまう。

 しかもどうも津田にとって吉川夫人は「本命」というわけでもなさそうなのだ。そして書かれている部分で言えば津田と吉川夫人には「浮気」と呼ばれるような関係はない。しかしお延が『明暗』を読めば、これは何なのですか? と訊くだろう。

 そんなに吉川夫人が気になるのは、何かおかしいんじゃないですか? そう訊かれる筈の所だ。

 つまりお延に加担して読み進める読者はそんな気持ちになるだろう。

いけない癖が出ている

「もしあの細君があの事件についておれに何か云い出す気があるとすると、その主意ははたしてどこにあるだろう」
 今の津田はけっしてこの問題に解決を与える事ができなかった。
「おれに調戯うため?」
 それは何とも云えなかった。彼女は元来他ひとに調戯う事の好きな女であった。そうして二人の間柄はその方面の自由を彼女に与えるに充分であった。その上彼女の地位は知らず知らずの間に今の彼女を放慢にした。彼を焦す事から受け得られる単なる快感のために、遠慮の埒を平気で跨ぐかも知れなかった。
「もしそうでないとしたら、……おれに対する同情のため? おれを贔負にし過ぎるため?」
 それも何とも云えなかった。今までの彼女は実際彼に対して親切でもあり、また贔負にもしてくれた。

(夏目漱石『明暗』)

 ここはごく普通に「交際に研究は禁物よ」と言われた津田が研究しているところだ。そして、あるいはこの吉川夫人と津田のなんとも訳の分からない関係性は漱石が研究を禁止したところなのかもしれない。簡単に類型化して安心するのではなく、世界で唯一の独特な関係性として見なくてはならないと主張しているところなのかもしれない。

 同情そのもの贔屓そのものは存在しない。そういう言葉で取りまとめられてしまうある種の感情があるだけだ。確かに人間関係においてはどうとも説明できない感情が生じることがある。特に無関心や嫌いの方向性ではないところ、やや好意的な関係の中で同情でも贔屓でもなく、何とも微妙な感情が湧くことはある。漱石の描こうとしているのはそう言うところなのだろうか。

 しかし焦らすことの快感というものが明確に指摘されていることはきわめて重要だろう。焦らされる快感と焦らすことの快感、そういうものが存在することは知識としては理解していても実感としては一生解らないという人も存在するのではなかろうか。
 私は短気なので焦らされると怒るだけだ。踏切の遮断器など本当にいらいらする。短気なので焦らすこともできない。漱石も癇癪持ちの筈なのに間違いなく焦らされる快感と焦らすことの快感を捉えている。そういう世界があることを知っている。

金を借りられる関係なのか?

 彼は広い通りへ来てそこから電車へ乗った。堀端を沿うて走るその電車の窓硝子の外には、黒い水と黒い土手と、それからその土手の上に蟠まる黒い松の木が見えるだけであった。
 車内の片隅に席を取った彼は、窓を透かしてこのさむざむしい秋の夜の景色にちょっと眼を注いだ後、すぐまたほかの事を考えなければならなかった。彼は面倒になって昨夕はそのままにしておいた金の工面をどうかしなければならない位地にあった。彼はすぐまた吉川の細君の事を思い出した。
先刻事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに
 そう思うと、自分が気を利かしたつもりで、こう早く席を立って来てしまったのが残り惜しくなった。と云って、今さらその用事だけで、また彼女に会いに行く勇気は彼には全くなかった。
 電車を下りて橋を渡る時、彼は暗い欄干の下に蹲踞る乞食を見た。その乞食は動く黒い影のように彼の前に頭を下げた。彼は身に薄い外套を着けていた。季節からいうとむしろ早過ぎる瓦斯煖炉の温かい焔をもう見て来た。けれども乞食と彼との懸隔は今の彼の眼中にはほとんど入はいる余地がなかった。彼は窮した人のように感じた父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた

(夏目漱石『明暗』)

 津田は吉川に休暇の相談に行ったのかと思えば、吉川夫人に新婚生活の話を聴かれる。そして当り障りのない話をして帰ったかと思いきや、津田には吉川夫人に借金を申し出る算段迄なくはなかったのだと知らされる。

 ここで単純に「吉川夫人」とか「男と女」と言いながら、実はさして特別な関係ではなく、単なる親戚なのではないかという考えが浮かぶ。要するに金持ちの叔母さんということであれば、借金も不可能ではなかろうと。

 しかしそれはそれで図々しい話であるに違いない。どうも津田は「金くらい誰でも貸してくれるべき」という勝手な理屈を持っているようだ。

 最後の「父が例月の通り金を送ってくれないのが不都合に思われた」という甘えもそうだが「先刻事情を打ち明けてこっちから云い出しさえすれば訳はなかったのに」というのもやはり図々し過ぎる考えだ。

 だからこそ「彼は窮した人のように感じた」の「彼」が津田なのか乞食なのか解らなくなる。つまり、

・津田が乞食を窮した人のように感じた
・津田が自分自身を窮した人のように感じた

 いずれともいずれでないとも判断が出来ないのだ。

 ここで「外套」は『道草』から貧しさを引き継いできたように読める。

「今日父が来ました時、外套がなくって寒そうでしたから、貴方の古いのを出して遣やりました」
 田舎の洋服屋で拵えたその二重廻は、殆んど健三の記憶から消えかかっている位古かった。細君がどうしてまたそれを彼女の父に与えたものか、健三には理解出来なかった。
「あんな汚ならしいもの」
 彼は不思議というよりもむしろ恥かしい気がした。
「いいえ。喜こんで着て行きました」
「御父さんは外套を有っていないのかい」
「外套どころじゃない、もう何にも有っちゃいないんです」
 健三は驚ろいた。細い灯に照らされた細君の顔が急に憐れに見えた。

(夏目漱石『道草』)

 津田の外套は小林に譲られる。この乞食は小林の未来を仄めかしているようだ。

[余談]

 なんだこれ?

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