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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する156 夏目漱石『明暗』をどう読むか⑤ まだ続編を書くのは早いだろう 

二人ともそうなのか

「厭よ、あたし」
 お延はすぐ断った。彼女の言葉には何の淀みもなかった。遠慮と斟酌を通り越したその語気が津田にはあまりに不意過ぎた。彼は相当の速力で走っている自動車を、突然停められた時のような衝撃を受けた。彼は自分に同情のない細君に対して気を悪くする前に、まず驚ろいた。そうして細君の顔を眺めた。
「あたし、厭よ。岡本へ行ってそんな話をするのは」
 お延は再び同じ言葉を夫の前に繰り返した。
「そうかい。それじゃ強いて頼まないでもいい。しかし……」
 津田がこう云いかけた時、お延は冷かな(けれども落ちついた)夫の言葉を、掬って追い退けるように遮った。
「だって、あたしきまりが悪いんですもの。いつでも行くたんびに、お延は好い所へ嫁に行って仕合せだ、厄介はなし、生計に困るんじゃなしって云われつけているところへ持って来て、不意にそんな御金の話なんかすると、きっと変な顔をされるにきまっているわ」
 お延が一概に津田の依頼を斥けたのは、夫に同情がないというよりも、むしろ岡本に対する見栄に制せられたのだという事がようやく津田の腑に落ちた。彼の眼のうちに宿った冷やかな光が消えた。

(夏目漱石『明暗』)

 殆どの人が『こころ』を読み誤っているという事実に明確に気が付く前、つまり今更夏目漱石作品の読みそのものについて具体的に何か書こうと思う前、ただ何となく『明暗』という作品を個人的に読んでいた時分、私はただ「この夫婦は良くないな」と思っていた。今も読んでいるのは個人ながら、その読みを公に晒す前提で読んでも、やはりこの「この夫婦は良くないな」という印象そのものは変わらない。

 何だかこの相談は相手の事情も斟酌しない悪だくみに思える。ずっと後ろの方で、出て來る小林とお延との会話、

「じゃ相談ずくでここで埋めちゃどうです」
「なぜ埋めるんです。埋める必要がどこかにあるんですか。それよりなぜそれを活かして使わないんです」
「活かして使う? 私はこれでもまだ罪悪には近寄りたくありません」
「罪悪とは何です。そんな手荒な事をしろと私がいつ云いました」
「しかし……」
「あなたはまだ私の云う事をしまいまで聴かないじゃありませんか」
 津田の眼は好奇心をもって輝やいた。

(夏目漱石『明暗』)

 これなどそこだけ切り取ると何か不味い事件でも起こしてゐそうだ。ここで埋める埋めないの話になっている津田の事実は書かれている部分からは明らかではない。しかしながらどうも単に小林が悪い、津田が悪いでは片付かない感じがする。

 なにしろ津田だけではなくて、お延も見栄っ張りなのだ。見栄っ張りな夫婦はドラマでは大抵悪役である。見栄自体は必要なものだし、見栄のない人などいないだろうが、ドラマでは飾り気のない正直な人が主人公になる。津田もお延も二人ともを見栄っ張りにした漱石の狙いというものも今のところ判然としない。
 ただどこかに書いたように『明暗』という作品にはどういうわけか飽食を除く七つの大罪が現れているようであり、キリスト教的には見栄は虚栄であり罪なのだ。その罪の一つが津田とお延の両方に与えられていることは何だか意味深だ。

仕返しされている

 お延は偶然思いついたように、今までそっちのけにしてあった、自分の晴着と帯に眼を移した。
「これどうかしましょうか」
 彼女は金の入った厚い帯の端を手に取って、夫の眼に映るように、電灯の光に翳した。津田にはその意味がちょっと呑み込めなかった。
「どうかするって、どうするんだい」
「質屋へ持ってったら御金を貸してくれるでしょう」
 津田は驚ろかされた。自分がいまだかつて経験した事のないようなやりくり算段を、嫁に来たての若い細君が、疾くの昔から承知しているとすれば、それは彼にとって驚ろくべき価値のある発見に相違なかった。
「御前自分の着物かなんか質に入れた事があるのかい」
「ないわ、そんな事」
 お延は笑いながら、軽蔑むような口調で津田の問を打ち消した。

(夏目漱石『明暗』)

 この帯を質に入れる云々の話はやはり『道草』と比較せねばならないだろう。

「しかしかつかつ位には行きそうなものだがな」
「行っても行かなくっても、これだけの収入で遣って行くより仕方がないんですけれども」
 細君はいい悪そうに、箪笥の抽匣にしまって置いた自分の着物と帯を質に入れた顛末を話した。
 彼は昔自分の姉や兄が彼らの晴着を風呂敷へ包んで、こっそり外へ持って出たりまた持って入ったりしたのをよく目撃した。他に知れないように気を配りがちな彼らの態度は、あたかも罪を犯した日影者のように見えて、彼の子供心に淋しい印象を刻み付けた。こうした聯想が今の彼を特更に佗しく思わせた。
「質を置いたって、御前が自分で置きに行ったのかい」
 彼自身いまだ質屋の暖簾を潜った事のない彼は、自分より貧苦の経験に乏しい彼女が、平気でそんな所へ出入りするはずがないと考えた。
「いいえ頼んだんです」
「誰に」
「山野のうちの御婆さんにです。あすこには通いつけの質屋の帳面があって便利ですから」
 健三はその先を訊きかなかった。夫が碌な着物一枚さえ拵えてやらないのに、細君が自分の宅から持ってきたものを質に入れて、家計の足しにしなければならないというのは、夫の恥に相違なかった。

(夏目漱石『道草』)

 結局お延の提案は「夫の矜りを傷つけるという意味において彼は躊躇した」ことにより流される。しかし見栄っ張りな津田に質に入れるかどうか相談したところで結論は出ていた筈だ。よせというに決っているからお延は「これどうかしましょうか」と訊いたのであり、本当に金を工面しようとするなら反対されないようにこっそり質に入れるものだろう。

 ※ちなみに今はもう質に入れるも置くも使わず、買い取ってもらうことが殆どだろうが、質に入れるも置くも同じ意味である。

 そしてこれは夫がいつまでも厭味たらしく帯を見ていることに気がついたお延の仕返しではなかろうか。「それで今度その服装で芝居に出かけようと云うのかね」と言われて何も言い返せなかった悔しさが、「これどうかしましょうか」という皮肉でやり返されているところだ。それに対して「まあよく考えて見よう」と言って二階に上がる津田は完全に負けである。女房に口げんかで勝てるなどとは考えない方がいい。

どういう関係?

 翌日津田は例のごとく自分の勤め先へ出た。彼は午前に一回ひょっくり階子段の途中で吉川に出会った。しかし彼は下りがけ、向むこうは上りがけだったので、擦すれ違いに叮嚀な御辞儀をしたぎり、彼は何にも云わなかった。もう午飯に間もないという頃、彼はそっと吉川の室の戸を敲いて、遠慮がちな顔を半分ほど中へ出した。その時吉川は煙草を吹かしながら客と話をしていた。その客は無論彼の知らない人であった。彼が戸を半分ほど開けた時、今まで調子づいていたらしい主客の会話が突然止まった。そうして二人ともこっちを向いた。
「何か用かい」
 吉川から先へ言葉をかけられた津田は室の入口で立ちどまった。
「ちょっと……」
「君自身の用事かい」
 津田は固より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった。跋の悪そうな顔つきをした彼は答えた。
「そうです。ちょっと……」
「そんなら後にしてくれたまえ。今少し差支えるから」
「はあ。気がつかない事をして失礼しました」
 音のしないように戸を締めた津田はまた自分の机の前に帰った。

(夏目漱石『明暗』)

 水村美苗の『続 明暗』の文庫本が本物と同じ装丁で『明暗』の横に並べられているのを本屋で見た時、私はおそらく言いがかりのような嫉妬心に囚われたのではないかと思う。しかし仮に『続 明暗』などを書くとしたら、この津田と吉川との関係性、「津田は固より表向の用事で、この室へ始終出入すべき人ではなかった」というところを詰めていないと恥ずかしいことになるな、と今では冷静に思う。おそらく吉川は津田の上司筋であろうがそれだけではない。そこは書かれている範囲では明示的ではなく、吉川夫人との関係も曖昧だ。

 お金さんの縁談がどう片付くかという部分も含めて、『明暗』にはまだ書かれねばならないところがたくさんあり、一昨日気がついた「二三日」の謎など、まだ布石の洗い出しも終わっていない。そういう意味では水村美苗の『続 明暗』はいささか早すぎた。

 吉川には個室が与えられていて、津田はオフィスのフロアを跨いで仕事をしなくてはならないようだ。

「だから吉川さんに会って訳を話して見た上で、日取をきめようかと思っているところだ。黙って休んでも構わないようなもののそうも行かないから」
「そりゃあなた御話しになる方がいいわ。平生からあんなに御世話になっているんですもの
「吉川さんに話したら明日からすぐ入院しろって云うかも知れない」

(夏目漱石『明暗』)

 どうやら「黙って休んでも構わないようなものの」とあるからには、吉川は津田の直属の上司ではなさそうだ。それでいてお延から見ても「平生からあんなに御世話になっているんですもの」と言われるからにはよほどのことがあるに違いない。

 しかし明白ではなくヒントも少ない。これでは『続 明暗』は書けない。


何でもゲイの話にすればいいというものではない

 時間になった時、彼はほかの人よりも一足後れて大きな建物を出た。彼はいつもの通り停留所の方へ歩きながら、ふと思い出したように、また隠袋から時計を出して眺めた。それは精密な時刻を知るためよりもむしろ自分の歩いて行く方向を決するためであった。帰りに吉川の私宅へ寄ったものか、止したものかと考えて、無意味に時計と相談したと同じ事であった。
 彼はとうとう自分の家とは反対の方角に走る電車に飛び乗った。吉川の不在勝な事をよく知り抜いている彼は、宅まで行ったところで必ず会えるとも思っていなかった。たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだという事も承知していた。しかし彼としては時々吉川家の門を潜ぐる必要があった。それは礼儀のためでもあった。義理のためでもあった。また利害のためでもあった。最後には単なる虚栄心のためでもあった。
「津田は吉川と特別の知り合である」

 彼は時々こういう事実を背中に背負て見たくなった。それからその荷を背負ったままみんなの前に立ちたくなった。しかも自ら重んずるといった風の彼の平生の態度を毫も崩さずに、この事実を背負っていたかった。物をなるべく奥の方へ押し隠しながら、その押し隠しているところを、かえって他に見せたがるのと同じような心理作用の下に、彼は今吉川の玄関に立った。そうして彼自身は飽くまでも用事のためにわざわざここへ来たものと自分を解釈していた。

(夏目漱石『明暗』)

 どうも妙な関係である。そして妙な心理状態だ。仕事上のメンターというわけではなさそうだ。直属の上司ではなく、関係はむしろ私的なものなのであろう。ではどういう関係ならこうした心理状態になるものかと考えてみて明白な答えが見つからない。「たまさかいたにしたところで、都合が悪ければ会わずに帰されるだけだ」となると、まるで田口要作と田川敬太郎の関係だ。しかし田口要作と田川敬太郎の関係ならば、田川敬太郎がただ田口要作の世話になっているだけなので、世話になっているというだけのことを誰かに威張れるものではない。少し極端なようだが津田と吉川の関係は、ファンと有名人の関係に近いもののように見えないだろうか。

 仮に吉川が重役、津田が平社員であり、私的に縁があったとして「津田は吉川と特別の知り合である」などという自負は少々頓珍漢なものである。この「特別の知り合」の意味は「その押し隠しているところを、かえって他に見せたがる」というところから、やはりまたあっちの話ではないかと考える人もいるかもしれないが、いい加減にした方がいい。

 なんでもゲイの話にすればいいというものではない。津田はマゾである。


奥さんに何の用だ?

 厳しい表玄関の戸はいつもの通り締まっていた。津田はその上半部に透し彫りのように篏め込こまれた厚い格子の中を何気なく覗いた。中には大きな花崗石の沓脱が静かに横たわっていた。それから天井の真中から蒼黒い色をした鋳物の電灯笠が下がっていた。今までついぞここに足を踏み込んだ例のない彼はわざとそこを通り越して横手へ廻った。そうして書生部屋のすぐ傍にある内玄関から案内を頼んだ。
「まだ御帰りになりません」
 小倉の袴を着けて彼の前に膝をついた書生の返事は簡単であった。それですぐ相手が帰るものと呑み込んでいるらしい彼の様子が少し津田を弱らせた。津田はとうとう折り返して訊いた。
「奥さんはおいでですか」
「奥さんはいらっしゃいます」
 事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった。足をここまで運んで来る途中の彼の頭の中には、すでに最初から細君に会おうという気分がだいぶ働らいていた。
「ではどうぞ奥さんに」
 彼はまだ自分の顔を知らないこの新らしい書生に、もう一返取次を頼み直した。書生は厭な顔もせずに奥へ入った。それからまた出て来た時、少し改まった口調で、「奥さんが御目におかかりになるとおっしゃいますからどうぞ」と云って彼を西洋建の応接間へ案内した。

(夏目漱石『明暗』)

 吉川はお金持ちらしい。人を威圧する玄関のある家に住む主はただのサラリーマンではなかろう。しかしその主の奥さんとより親しい、「事実を云うと津田は吉川よりもかえって細君の方と懇意であった」とは一体どういうことか。会社の上司の奥さんと懇意ということは普通は良くない関係だ。むしろそうでないケースが思い浮かばない。実際明確に書かれている部分で、吉川夫人と津田の関係はなかなか際どいものだ。しかしその根っこのところの関係性が明かされていないので困る。

 津田が「まだ自分の顔を知らないこの新らしい書生」と言うからには吉川家に何度か訪れたことがあるようだ。しかし玄関からは入ったことがない。つまり正式な客として招かれたこともなければ、吉川に伴われて玄関から招き入れられたこともないということになる。それでいて奥さんの方とより懇意ということになると、もうあっちの方としか考えられない。


何故歳を訊く

 彼がそこにある椅子に腰をかけるや否や、まだ茶も莨盆も運ばれない先に、細君はすぐ顔を出した。
「今御帰りがけ?」
 彼はおろした腰をまた立てなければならなかった。
「奥さんはどうなすって」
 津田の挨拶に軽い会釈をしたなり席に着いた細君はすぐこう訊いた。津田はちょっと苦笑した。何と返事をしていいか分らなかった。
「奥さんができたせいか近頃はあんまり宅へいらっしゃらなくなったようね」
 細君の言葉には遠慮も何もなかった。彼女は自分の前に年齢下の男を見るだけであった。そうしてその年齢下の男はかねて眼下の男であった
「まだ嬉しいんでしょう」
 津田は軽く砂を揚げて来る風を、じっとしてやり過ごす時のように、おとなしくしていた。
「だけど、もうよっぽどになるわね、結婚なすってから」
「ええもう半歳と少しになります」
「早いものね、ついこの間だと思っていたのに。――それでどうなのこの頃は」
「何がです」
「御夫婦仲がよ」
「別にどうという事もありません」
「じゃもう嬉しいところは通り越しちまったの。嘘をおっしゃい」
「嬉しいところなんか始めからないんですから、仕方がありません」
「じゃこれからよ。もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」
「ありがとう、じゃ楽しみにして待っていましょう」
「時にあなた御いくつ?」
「もうたくさんです」
「たくさんじゃないわよ。ちょっと伺いたいから伺ったんだから、正直に淡泊りとおっしゃいよ」
「じゃ申し上げます。実は三十です」
「すると来年はもう一ね」
「順に行けばまあそうなる勘定です」
「お延さんは?」
「あいつは三です」
「来年?」
「いえ今年」

(夏目漱石『明暗』)

 この「その年齢下の男はかねて眼下の男であった」が判断しかねるところだ。吉川夫人は元津田の直属の上司で「かねて眼下の男であった」なのかとも考えたが、当時はまだ女性の社会進出が進んでおらず、吉川夫人がバリバリのキャリア・ウーマンとして働いていたとは考えづらい。それに吉川夫人が元津田の直属の上司であれば津田の年齢くらいは覚えているだろう。ではそれ以外のどんな「眼下」であり得るのか、そこが解らない。

 解っていることは現に津田が吉川夫人に眼下に見られていて、セクハラを受けていることである。新婚だから夜の生活は楽しいでしょうと三十男が揶揄われている。七歳違いの若い奥さんを貰ったから大変でしょうと確認されている。「もし始めからないなら、これからよ、嬉しいところの出て来るのは」というのは、津田がまだコツを掴んでないと言っているのであろう。

 随分助平な上司の奥さんである。



[余談]

え?

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