岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する195 視覴の謎
ひもじい時の神頼み
岩波の『定本漱石全集 第一巻』では、「ひもじい時の神頼み」に注解をつけて、
……としている。たしかにそうなのだが「ひもじい時のまずいものなし」のもじりでもあり、このあと「ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみ」と「み」で脚韻を踏むので「神頼み」なのだと確認しておこう。
貧のぬすみに恋のふみ
岩波は「貧のぬすみに恋のふみ」に対して、
……と注解をつける。これでは「せっぱつまると人間はどんなことでもするというたとえ」として「貧のぬすみに恋のふみ」という諺があり、浄瑠璃「八百屋お七」に「貧の盗みに恋の歌」とあるのがそのヴァリエーションであるかのようだが、「貧の盗みに恋の歌」という諺が落語などで広く知られていて、漱石がやはり脚韻のために「歌」を「ふみ」に置き換えたと見るべきであろう。
このヴァリエーションとして「貧の盗みに恋の闇」や、
あるいは「貧の盗みに恋の欲」などがある。
意味としては。
……ということになろうか。
中形の模様
岩波はここで「元禄」に注を付けて「中形の模様」の説明をしない。
黒田鵬心の『文化生活と趣味』によれば日露戦争以降、流行りの模様は目まぐるしく変化しており、ざっと以下のように短期間で入れ替わっている。
明治三十八、九年 元禄模様
明治四十年 桃山模様
明治四十一、二年 光琳模様
明治四十三、四年 有職模様
大正元年、二年 諒闇
大正三年 大正式模様
大正四年 御大典模様
大正五、六年 土佐絵風模様
これが時代の空気であり、その目まぐるしさは現代の比ではないのかもしれない。
大将この時分は何をしていたんだろう
岩波は「大蔵卿」に注解をつけて、明治十一年当時伊藤博文は大蔵少輔で内務職を兼ねていたが大蔵卿ではないとしている。当時の大蔵卿は大隈重信である。明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂の変により大久保利通が暗殺されたことを受けて伊藤博文は内務卿を引き継ぐ。よって明治十一年九月廿八日時点で内務卿であった。
いやいやいや。
それにしては日付が細かい。
なんだこれ?
大蔵卿伊藤博文とある。
本来の形はこうだが、
これではどうしても単に大蔵卿でないとするわけにはいかないだろう。手続きや正式な記録上は兎も角、伊藤博文はこの当時あたかも大蔵卿であるかのように振舞っていたということになる。官報に嘘を載せるわけにはいかない。伊藤博文は大蔵卿ではなかったのに大蔵卿として振舞い、誰にも文句を言わせなかったのだ。
これは大将、大久保利通がいなくなった途端に、いかにも好き勝手をやり過ぎてはいまいか。現在で言えば財務大臣と総務大臣を兼任して警察庁も直轄して、その他もろもろの国家権力の中心に立ったというところか。
当時の庶民にしてみれば、やはり「好き勝手やっているな」と見えたのではなかろうか。
年齢からして漱石もリアルタイムで「おや、おかしいぞ」とまで気が付いていたかどうかは怪しい。しかし大人になってちょっと昔のことを見聞きすると「大将、好き勝手やっているな」という感覚までは辿り着いたのだろう。その為の日付が「明治十一年九月廿八日」だったわけだ。
大久保利通は伊藤博文によって暗殺されたとは言わない。しかし「谷」で殺されたのに紀尾井坂の変とは何かがおかしい。どこかに羅織虚構があることを漱石は指摘していないだろうか。
[余談]
こういうことがあるから良く調べないとね。
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