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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する195 視覴の謎

ひもじい時の神頼み

 岩波の『定本漱石全集 第一巻』では、「ひもじい時の神頼み」に注解をつけて、

 諺の「苦しい時の神頼み」をもじったもの。

(『定本漱石全集 第一巻』岩波書店 2017年)

 ……としている。たしかにそうなのだが「ひもじい時のまずいものなし」のもじりでもあり、このあと「ひもじい時の神頼み、貧のぬすみに恋のふみ」と「み」で脚韻を踏むので「神頼み」なのだと確認しておこう。


貧のぬすみに恋のふみ


 岩波は「貧のぬすみに恋のふみ」に対して、

 せっぱつまると人間はどんなことでもするというたとえ。浄瑠璃「八百屋お七」に「貧の盗みに恋の歌」とある。

(『定本漱石全集 第一巻』岩波書店 2017年)

 ……と注解をつける。これでは「せっぱつまると人間はどんなことでもするというたとえ」として「貧のぬすみに恋のふみ」という諺があり、浄瑠璃「八百屋お七」に「貧の盗みに恋の歌」とあるのがそのヴァリエーションであるかのようだが、「貧の盗みに恋の歌」という諺が落語などで広く知られていて、漱石がやはり脚韻のために「歌」を「ふみ」に置き換えたと見るべきであろう。

 このヴァリエーションとして「貧の盗みに恋の闇」や、

水戸黄門東国漫遊記 簑笠の翁 編三芳屋書店 1913年

あるいは「貧の盗みに恋の欲」などがある。

吾孺下五十三駅・月見曠名画一軸・新累女千種花嫁 河竹黙阿弥 (吉村新七) 著吉村いと 1889年

意味としては。

貧の盜みに戀の歌。盜人をする動機は數々あるがその中で一番多いのは貧乏である。歌の題には雪月花星や菫と色々あれど戀を歌ふものが一番多い。


文学寳典伊賀駒吉郎 編東洋大学出版部[ほか] 1916年

 ……ということになろうか。

中形の模様

坊やはこれでも元禄を着ているのである。元禄とは何の事だとだんだん聞いて見ると、中形の模様なら何でも元禄だそうだ。

(『定本漱石全集 第一巻』岩波書店 2017年)

岩波はここで「元禄」に注を付けて「中形の模様」の説明をしない。

 黒田鵬心の『文化生活と趣味』によれば日露戦争以降、流行りの模様は目まぐるしく変化しており、ざっと以下のように短期間で入れ替わっている。

明治三十八、九年 元禄模様
明治四十年    桃山模様
明治四十一、二年 光琳模様
明治四十三、四年 有職模様
大正元年、二年  諒闇
大正三年     大正式模様
大正四年     御大典模様
大正五、六年   土佐絵風模様

文化生活と趣味 黒田鵬心 著誠文堂 1922年

元祿模様にしても桃山模樣にしても、光琳模樣にしても何れも放膽な模樣であり、且つ比較的平民的模樣であつた反動として、細緻な且つ貴族的な有職模樣が流行したのである。

文化生活と趣味 黒田鵬心 著誠文堂 1922年

 これが時代の空気であり、その目まぐるしさは現代の比ではないのかもしれない。

大将この時分は何をしていたんだろう

 第一に眼にとまったのが伊藤博文の逆か立ちである。上を見ると明治十一年九月廿八日とある。韓国統監もこの時代から御布令の尻尾を追っ懸けてあるいていたと見える。大将この時分は何をしていたんだろうと、読めそうにないところを無理によむと大蔵卿とある。なるほどえらいものだ、いくら逆か立ちしても大蔵卿である。少し左の方を見ると今度は大蔵卿横になって昼寝をしている。もっともだ。逆か立ちではそう長く続く気遣いはない。下の方に大きな木板で汝はと二字だけ見える、あとが見たいがあいにく露出しておらん。次の行には早くの二字だけ出ている。こいつも読みたいがそれぎれで手掛りがない。もし主人が警視庁の探偵であったら、人のものでも構わずに引っぺがすかも知れない。探偵と云うものには高等な教育を受けたものがないから事実を挙げるためには何でもする。あれは始末に行かないものだ。願ねがわくばもう少し遠慮をしてもらいたい。遠慮をしなければ事実は決して挙げさせない事にしたらよかろう。聞くところによると彼等は羅織虚構をもって良民を罪に陥れる事さえあるそうだ。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 岩波は「大蔵卿」に注解をつけて、明治十一年当時伊藤博文は大蔵少輔で内務職を兼ねていたが大蔵卿ではないとしている。当時の大蔵卿は大隈重信である。明治11年(1878年)5月14日、紀尾井坂の変により大久保利通が暗殺されたことを受けて伊藤博文は内務卿を引き継ぐ。よって明治十一年九月廿八日時点で内務卿であった。

 いやいやいや。

 それにしては日付が細かい。

官令全報 第27号 小笠原美治 編弘令社 1883年

 なんだこれ?

 大蔵卿伊藤博文とある。


官令全報 第28号 小笠原美治 編弘令社 1883年

 本来の形はこうだが、

官令全報 第26号 小笠原美治 編弘令社 1883年


官令全報 第26号 小笠原美治 編弘令社 1883年

 これではどうしても単に大蔵卿でないとするわけにはいかないだろう。手続きや正式な記録上は兎も角、伊藤博文はこの当時あたかも大蔵卿であるかのように振舞っていたということになる。官報に嘘を載せるわけにはいかない。伊藤博文は大蔵卿ではなかったのに大蔵卿として振舞い、誰にも文句を言わせなかったのだ。

 これは大将、大久保利通がいなくなった途端に、いかにも好き勝手をやり過ぎてはいまいか。現在で言えば財務大臣と総務大臣を兼任して警察庁も直轄して、その他もろもろの国家権力の中心に立ったというところか。

 当時の庶民にしてみれば、やはり「好き勝手やっているな」と見えたのではなかろうか。

 年齢からして漱石もリアルタイムで「おや、おかしいぞ」とまで気が付いていたかどうかは怪しい。しかし大人になってちょっと昔のことを見聞きすると「大将、好き勝手やっているな」という感覚までは辿り着いたのだろう。その為の日付が「明治十一年九月廿八日」だったわけだ。

 大久保利通は伊藤博文によって暗殺されたとは言わない。しかし「谷」で殺されたのに紀尾井の変とは何かがおかしい。どこかに羅織虚構があることを漱石は指摘していないだろうか。

[余談]

 こういうことがあるから良く調べないとね。

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