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むりせんでええがなそんなもんあほちゃうか

 この行動や感情に名前があるものであろうか。もしまだないとしたらこの行動は「ミスマッチ読書」、この感情は「むりせんでええがなそんなもんあほちゃうか」と仮に名付けてはどうだろう。

七月六日(木曜)
 暑くて又寝られず、十一時起き。陸軍病院へ慰問に行く。楽屋、ムン/\暑く泣きたいやうだ。僕は三益と漫才、「鶴八」の漫才と同じことをやるのだが、此っちは大受けだ。三時すぎ、冷房恋しさに、朝日ビルの千疋屋へ寄り、マカロニトースト食った。四時すぎ楽屋へ入り、冷房を味はひ、横になる。入りは八分強、「鶴八」の衣裳暑苦しいので白に変へた、芝居最中に左の上歯がポロリと抜けた。奥歯故目にはつかないが。「次郎長」今日あたりで漸くかたまった感じ。床へ入り、芥川竜之介の「文芸的な余りに文芸的な」を読む。

(古川緑波『古川ロッパ昭和日記 昭和十四年』)

七月七日(金曜)
 今日事変勃発二周年記念日で、芝居も休めばいゝものを、二時から七時迄といふヘンなマチネー(?)あり。二時に、幕を開け、僕が司会して、宮城遙拝と、黙祷、大日本帝国万歳三唱して、それからプログラムへ入る。客は、ぎっしり満員。芝居すべて気が乗らない、クサリ。七時にハネる。今日は世の中すっかり自粛で、何もなし。東京の那波氏へ電話する。例の麻雀の調べで、堀井を帰京せしめろとの話、つく/″\いやんなっちまった。夜食後は、芥川の「文芸的な」を上げて、三宅周太郎の古い著「演劇評話」をとてもいゝので三時迄読む。

(古川緑波『古川ロッパ昭和日記 昭和十四年』)

 絶対に読めていないと思うのは私だけではなかろう。なんでそんなもん読もうとしたんや、あほちゃうかと思うのも私だけではなかろう。古川緑波は食い物のことだけ書いていればいいのだ。ロシア文学をやった東海林さだおがドストエフスキーを読んでも構わない。しかし古川緑波に芥川は似合わない。

 ただ日々こういうミスマッチ読書が行われているのも確かで、読書メーターにはそういう感想が死屍累々と積み上がっている。所詮芥川の『文芸的なあまりにも文芸的な』は芥川のコアなファンか、小説家志望の文学青年のものであって、「いい大人」が読むようなものではない。

 例えば四十過ぎのサラリーマンが『文芸的なあまりにも文芸的な』を読んでいたら、勤務評定で減点されても仕方ない。パン屋の店長が読んでいたら、アルバイト店員から「店長、だいじょうぶですか?」と心配されてしまうだろう。

 逆に言えばそれは懸垂が出来ないものが大車輪をしようとするようなもので、早い話とても無理である。それなのにどういうわけかみんな芥川を読んだと言い張る。あるいは夏目漱石の『こころ』を読んだと言い張る。

 そんなもん無理や、あほちゃうか、と言いたくなる。

 やはり物事にはレベルというものがあって、漱石や芥川を読むということは、相当な修業を積まないとできないことなのだ。三島由紀夫も太宰治も漱石を読めていないのだ。むりせんでええがなそんなもんあほちゃうかとは罵倒ではない。そこを越えようと思えば努力すればいい。ただひたすら小林十之助のnoteを読むだけでは足りない。

 記事に必ず張り付けてあるものはなんだ?



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