むりせんでええがなそんなもんあほちゃうか
この行動や感情に名前があるものであろうか。もしまだないとしたらこの行動は「ミスマッチ読書」、この感情は「むりせんでええがなそんなもんあほちゃうか」と仮に名付けてはどうだろう。
絶対に読めていないと思うのは私だけではなかろう。なんでそんなもん読もうとしたんや、あほちゃうかと思うのも私だけではなかろう。古川緑波は食い物のことだけ書いていればいいのだ。ロシア文学をやった東海林さだおがドストエフスキーを読んでも構わない。しかし古川緑波に芥川は似合わない。
ただ日々こういうミスマッチ読書が行われているのも確かで、読書メーターにはそういう感想が死屍累々と積み上がっている。所詮芥川の『文芸的なあまりにも文芸的な』は芥川のコアなファンか、小説家志望の文学青年のものであって、「いい大人」が読むようなものではない。
例えば四十過ぎのサラリーマンが『文芸的なあまりにも文芸的な』を読んでいたら、勤務評定で減点されても仕方ない。パン屋の店長が読んでいたら、アルバイト店員から「店長、だいじょうぶですか?」と心配されてしまうだろう。
逆に言えばそれは懸垂が出来ないものが大車輪をしようとするようなもので、早い話とても無理である。それなのにどういうわけかみんな芥川を読んだと言い張る。あるいは夏目漱石の『こころ』を読んだと言い張る。
そんなもん無理や、あほちゃうか、と言いたくなる。
やはり物事にはレベルというものがあって、漱石や芥川を読むということは、相当な修業を積まないとできないことなのだ。三島由紀夫も太宰治も漱石を読めていないのだ。むりせんでええがなそんなもんあほちゃうかとは罵倒ではない。そこを越えようと思えば努力すればいい。ただひたすら小林十之助のnoteを読むだけでは足りない。
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