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早くしないと間に合わない 芥川龍之介の『戯作三昧』をどう読むか⑥

 内へ帰つて見ると、うす暗い玄関の沓脱の上に、見慣れたばら緒の雪駄が一足のつてゐる。馬琴はそれを見ると、すぐにその客ののつぺりした顔が、眼に浮んだ。さうして又、時間をつぶされる迷惑を、苦々しく心に思ひ起した。
「今日も朝の中はつぶされるな。」
 かう思ひながら、彼が式台へ上ると、慌しく出迎へた下女の杉が、手をついた儘、下から彼の顔を見上げるやうにして、
「和泉屋さんが、御居間でお帰りをお待ちでございます。」と云つた。
 彼は頷きながら、ぬれ手拭を杉の手に渡した。が、どうもすぐに書斎へは通りたくない。
「お百は。」
「御仏参にお出でになりました。」
「お路も一しよか。」
「はい。坊ちやんと御一しよに。」
「伜は。」
「山本様へいらつしやいました。」
 家内は皆、留守である。彼はちよいと、失望に似た感じを味つた。さうして仕方なく、玄関の隣にある書斎の襖を開けた。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 朝っ風呂だったかと今更ながら驚かされる。「天保二年九月の或午前である」と書き始められてもいたが、にぎやかなのでつい昼ちかくかと思っていた。それにしても朝っ風呂とは江戸っ子は余裕があるなと感心もする。その余裕は明治までは続いていて、漱石も十時ごろから二時ごろまでの間に銭湯に通っていたようだ。

 今では銭湯は夕方からの営業が殆どであろうが、少なくとも明治時代は午前中からやっていたのだ。
 そんなことを確認すると次に気になるのは家族構成だ。「お百」というのが妻だろうか。「お路」は馬琴の息子の嫁。この後の「坊ちやん」と「伜」と「山本様」が解らない。『馬琴日記 : 天保二年』には、「小川町邊處々山本啓春院並渥見次右衞門方」「治右衞門等隣家山本氏」「醫師山本宗洪」「山本北山」と四人の山本が出てくる。

 寛政五(1793)年、馬琴は「飯田町飯田町中坂の履物商伊勢屋會田氏の寡婦(名は百)に入夫す。」と『馬琴日記 : 天保二年』にある。寛政六年(1794)年、馬琴二十八歳の年に長女「さき」が生まれている。寛政八(1796)年、馬琴三十歳の年に次女「ゆふ」が生まれる。寛政九年(1797)年、馬琴三十一歳の年に長男「鎮五郎(後に宗伯)」が生まれる。寛政十二年(1800)年、馬琴三十四歳の年に三女「くは」が生まれる。
 文政六年(1823年)、馬琴五十七歳の年に長女「さき」が夫を迎える。 

馬琴日記 : 天保二年

 文政十一年(1828年)、馬琴六十二歳の年に宗伯の長男「太郎」が生まれる。

 ということで「坊ちやん」は太郎、「伜」は「宗伯」でよさそうなものではあるが、天保元年には宗伯の長女「つぎ」が生まれ、天保元年には宗伯の長女「つぎ」が生まれているのだ。
 この赤ん坊の面倒は誰が見ているのか?


馬琴家

 

 そもそも『馬琴日記 : 天保二年』には四女の記録がなく、次女三女の行方も解らない。まあそれはよしとしようか。

 開けて見ると、そこには、色の白い、顔のてらてら光つてゐる、どこか妙に取り澄ました男が、細い銀の煙管を啣へながら、端然と座敷のまん中に控へてゐる。彼の書斎には石刷を貼つた屏風と床にかけた紅楓黄菊の双幅との外に、装飾らしい装飾は一つもない。壁に沿うては、五十に余る本箱が、唯古びた桐の色を、一面に寂しく並べてゐる。障子の紙も貼つてから、一冬はもう越えたのであらう。切り貼りの点々とした白い上には、秋の日に照された破芭蕉の大きな影が、婆娑として斜に映つてゐる。それだけにこの客のぞろりとした服装が、一層又周囲と釣り合はない。
「いや、先生、ようこそお帰り。」
 客は、襖があくと共に、滑らかな調子でかう云ひながら、恭うやうやしく頭を下げた。これが、当時八犬伝に次いで世評の高い金瓶梅の版元を引受けてゐた、和泉屋市兵衛と云ふ本屋である。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 この「和泉屋市兵衛」に関して『馬琴日記 : 天保二年』では十一月五日になってから一度だけ現れる。九月に来たという記録はない。それでも「お百」「お路」「坊ちやん」「伜」と書くのだから、芥川も『馬琴日記 : 天保二年』は読んでいるのであろう。「和泉屋市兵衛」とは東京芝神明前三島町にあった書肆らしい。

馬琴日記 : 天保二年


八百善組立絵
八百善組立絵

 本屋が作家に会いに来たとなると用事はもう決まったようなものだ。

「大分にお待ちなすつたらう。めづらしく今朝は、朝湯に行つたのでね。」
 馬琴は、本能的にちよいと顔をしかめながら、何時の通り、礼儀正しく座についた。
「へへえ、朝湯に。成程。」
 市兵衛は、大に感服したやうな声を出した。如何なる瑣末な事件にも、この男の如く容易に感服する人間は、滅多にない。いや、感服したやうな顔をする人間は、稀である。馬琴は徐ろに一服吸ひつけながら、何時もの通り、早速話を用談の方へ持つていつた。彼は特に、和泉屋のこの感服を好まないのである。
「そこで今日は何か御用かね。」
「へえ、なに又一つ原稿を頂戴に上りましたんで。」
 市兵衛は煙管を一つ指の先でくるりとまはして見せながら、女のやうに柔やさしい声を出した。この男は不思議な性格を持つてゐる。と云ふのは、外面の行為と内面の心意とが、大抵な場合は一致しない。しない所か、何時でも正反対になつて現れる。だから、彼は大いに強硬な意志を持つてゐると、必ずそれに反比例する、如何にも柔しい声を出した。
 馬琴はこの声を聞くと、再び本能的に顔をしかめた。
「原稿と云つたつて、それは無理だ。」
「へへえ、何か御差支へでもございますので。」
「差支へる所ぢやない。今年は読本を大分引受けたので、とても合巻の方へは手が出せさうもない。」
「成程それは御多忙で。」
 と云つたかと思ふと、市兵衛は煙管で灰吹きを叩いたのが相図のやうに、今までの話はすつかり忘れたと云ふ顔をして、突然鼠小僧次郎太夫の話をしやべり出した。

(芥川龍之介『戯作三昧』)

 和泉屋市兵衛とはなかなか油断のならない男のようだ。にべもない断りの言葉を軽く聞き流して、話題を切り換える応酬話法というセールストークがある。こうしたものは何十種類と研究されていて、マニュアル化もされている。しかしマニュアルを見るまでもなく、商売人というものはそうしたいくつものコツを自ら編み出し、絶妙な塩梅で駆使しているものだ。

 樋口一葉の日記を読んでいたら、駿河の次郎長の葬式の話が書かれていた。

一葉日記集 下巻

 なるほど日記に書きとめるということは、こうしたことは一葉の関心事なのだなと解る。和泉屋市兵衛が「鼠小僧次郎太夫」に話題を転じたのも、馬琴の作風からいかにもこうしたことに関心がありそうだと踏んだからであろう。もちろんこれはそうした商売人の心得を芥川が見透かしているから書きうることだ。そして「本能的にちよいと顔をしかめながら」と馬琴のマイクロジェスチャーを捉えているのがすごい。

 芥川は馬琴が和泉屋市兵衛のような手練れを本能的に苦手にしていることを「ちよいと顔をしかめながら」と表現して見せたのだ。馬琴は気が弱く、批評にも耐えられず、なんなら商売のやり取りは駄目そうな男だ。「差支へる所ぢやない。今年は読本を大分引受けたので、とても合巻の方へは手が出せさうもない。」という断り方がまず駄目だ。かなり条件を限定してしまっているので、

ごう‐かん【合巻】ガフクワン
江戸後期、文化(1804〜1818)以後に流行した草双紙くさぞうしの一種。従来の黄表紙が5丁を1冊、数冊で1部としていた製本を合冊して1冊としたもの。それを1部1編として、長いものは数十編に及ぶ。各ページ絵入りの読物で、素材・表現ともに実録・読本・浄瑠璃・歌舞伎などの影響が著しい。

広辞苑

 相手に嵌められる前から、ドア・イン・ザ・フェイスに引っかかりそうなスキを作ってしまっている。「合巻が無理なら、短いものを一ついただきましょうか」と言われてしまえば万事休すだ。

 そしてふと『馬琴日記 : 天保二年』の年譜を思い出す。「八犬伝」の完結はこれより十一年後、馬琴七十五歳の年である。前年失明し、お路との口述筆記により完成させた。結果として完結は出来たが、実に危ないところだった。馬琴は忙しいのだ。

 早くしないと間に合わない。邪魔をしてはいけない。

 そう気が付いたところで今日はこれまで。

[附記]

 すべてが終わってしまった地点から眺めると、結果として大人気作家であった芥川は各編集者と仲が良く、依頼原稿に忙殺されて「七年ぶりの書き下ろし長篇三部作」など到底書ける環境にはなかった、ともいえようか。

 まず文体が短篇向き、という以上に環境要因は大きいと思う。

 そして案外『源氏物語』に興味がなさそうなところも長篇を書かなかった原因の一つに挙げられるのではなかろうか。それはまあ原因というよりは志向、といったものかもしれないが。『栄花物語』は長いことは長いけれど年代記のような区切りがあり、一部を切り出して眺めることができる。『源氏物語』も一部を切り出して眺めることは可能だが、断ち切れない物語のうねりのようなものがある。芥川はそういう『源氏物語』独特の長篇スタイルをその書かれている恋愛というテーマごと受け付けなかったように思える。『源氏物語』など早い人は子供の時に読んでしまうのでそれを件の失恋体験と結び付けるのもどうかと思うし、芥川の最初の俳句を見れば『源氏物語』を全く読んでいないとは考えられないのだが、少なくとも谷崎潤一郎ほど深くは読んでいないだろうということもまた確かである。


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