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芳川泰久の『漱石論 鏡あるいは夢の書法』をどう読むか③ チューズニーヤーチューズニーサウザンレッドイッツシーノーズ

 漱石論に限らず、フロイトとマルクスを持ち出したところで、その本は閉じてしまっていいと思う。フロイトは実証科学なのか、マルクスは歴史学なのかと問い直してもいい。フロイトの様々なアイデアはリビドーという観念なのか実体なのかわからないものを仮想して成り立っていたが、次第にリビドーの概念は忘れ去られてしまった。ものすごく客観的に見れば、フロイトがリビドーと呼んだものを宇宙に遍在する愛のエネルギー、オルゴンとしてウィリヘルム・ライヒが「発見」してしまったからではないかと思う。ライヒがフロイト左派という珍妙なポジションを発明したわけではない。ライヒの『ファシズムの大衆心理』『セクシャル・レボリユーション』における「社会心理学」的な流れはフロイトとマルクスを折衷しようとしたエーリッヒ・フロムにこっそり(ライヒを完全に無視して)引き継がれてしまったように見える。だからフロイト左派と言えばまともな人はフロムを思い出す。
 マルクスを持ち出す人の大半は『資本論』を読んでいない。トマ・ピケティを持ち出す人が『21世紀の資本』を手に取ってさえいないのと同じだ。あんなでかい本は肘が疲れて読めない。

 フロイトは性に拘り過ぎ、マルクスは金に拘り過ぎている。正直フロイトは頭がおかしいと思う。やたらとフロイトを持ち出す人も同じである。

 狂女=狂子=鏡子。おそらくmad・onnaが清=キヨ=鏡という既知語のネットワークによって妻=女のゆらぎをテクストに持ち込むとき、そこにはmadonna=狂女=鏡子という既知語の交錯をも召喚してしまうのではないか。

(芳川泰久『漱石論 鏡あるいは夢の書法』河出書房新社 1994年)

 私の父は非文学的な人間で父の書斎にはほぼ文学作品はなかった。我が家には二種類の世界文学全集と筑摩日本文学大系ほかかなりの本があったが、父の書斎にあったのは百科事典と父の研究分野の専門書と歴史書、例外としてリルケの詩集が一冊、出張の際にでも買ったのか読みもの雑誌が一冊、そしてタミル語で万葉歌を読み解くという『「万葉集」の謎』とかいう本だけだった。

 このタミル語で万葉歌を読み解くという本はベストセラーになったようで、その後古代朝鮮語で読み解くものも現れた。この系統で、日本人の祖先はユダヤ人だという本も出てきた。私は「君が代」を英語で読んで「キープミガッツユーアー」という歌をこしらえた。

 芳川の文章を細目で眺めれば「偏執的」とはいえるだろう。

 なぜか。

 この理屈ではすべての妻が「狂女=狂子=鏡子あるいはmad・onna」と結びつけられねばならず、漱石作品において明確に狂女としてあらわれるのは那美さんだけであり、彼女はそもそも「余」の妻ではなく、神経症の症状を見せる妻が『道草』の「お住」だけだからである。

 まあ「狂女=狂子=鏡子」だけでもひどい誹謗中傷だ。

 前章で機知について語った際、われわれはユーモアをもたらす超自我の両義性に言及した。

(芳川泰久『漱石論 鏡あるいは夢の書法』河出書房新社 1994年)

 いや、私は言及していない。言及したのは君だ。私はフロイトの提唱した超自我なるものをまだ実際に見たことがない。

 このように本来「私」と書くべきところで「われわれ」に拡大してしまう自意識は、あくまでも他者の存在を前提としていて、彼らを理屈に乗せて仲間に引き入れたいとき、つまり「われわれはこう考えるべきだ」という仮想的未来における希望の場合に限って容認されるべきものであり、「言った」「書いた」とすでに行われた行動まで巻き添えにされる義務はなかろう。「われわれは見てきた」というような言い方も一方的に反論を禁じるような態度で時に気に障るが、さすがに「言及した」は異常ではなかろうか。

 もう一度はっきり書いておく。

 私は言及していない。

 そしてこのときわれわれは、この二つの場所が「池」と「羊水+子宮」であることから、それらがまぎれもなく漱石的風景を形成する「冷たい水」の場所と「熱い水」の場所であることに気づかねばならない。しかも、そうした二つの風景(トポス)のうちに見いだした、死を誘起する場所とエロスと近接遭遇する場所という属性は、そのまま『道草』の、「池」と「羊水+子宮」という「死の欲動」と「生(性)の欲動」の場として維持されているではないか。なにしろ「池」では緋鯉が死ぬのであり、「羊水」からは女児が生まれるのだ。

(芳川泰久『漱石論 鏡あるいは夢の書法』河出書房新社 1994年)

 この言い分が認められるためには、漱石作品以外ではみな冷たい羊水から子供が生まれなくてはならない。もちろんこんな言い分がばかばかしいことを予め知っていた芥川龍之介は『温泉だより』という奇妙な作品で、温泉で煮えて死ぬ巨人を描いて見せた。

 芳川はあえて『こころ』の海水浴を無視している。あれはどちらなのか? 生ぬるい水の中の歓喜?

 偏執的であることで真剣さを装い、なおラカンやデリダまで持ち出して武装しなければならないほど、芳川の漱石論はもろいものだった。所詮は蓮實重彦の二番煎じ、猿真似に過ぎない。

 実際彼もまた「静が生かされる」という『こころ』のストーリーが見えておらず、その話者を「きわめて特異」と規定することでまた『行人』が「私」同様手紙の後の現在から回顧の形式で語っていることに気が付いていないことを告白してしまっている。

 繰り返すが作品の構造をつかむことは読解の基礎である。

①全体の構造を把握する

②粗筋をまとめる

③語句の意味を理解する

④「肝」の部分を捉える

⑤隠れていたものが見えてくる

 順番はともかく、このことを徹底的にやらなければ漱石作品を読んだとはいえず、漱石論を語る資格はない。

 言葉遊びのこじつけはその後にしたらいい。

 まずは読むことだ。

[余談]

 マルクスは出てこないが、フロイト、デリダ、ラカンとあかんもんの詰め合わせのような人だった。

 それでまたこの人のエピゴーネンみたいなもんがあほほどおるねんやろな。

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