見出し画像

江藤淳の『決定版 夏目漱石』をどう読むか① 漱石神話と「則天去私」

割引あり


則天去私の正体


 「則天去私」の視点に関する一つの仮説を提起すれば、それは作家の作中人物に対するfairnessあるいはpityである。これは必然的に、作家における自己の内部の対象化を要求する。

(江藤淳『決定版 夏目漱石』新潮社 昭和四十五年)

 今改めて確認すれば、江藤淳は明らかに角度をつけて語っている。つまり漱石神話を崩壊させることを意図し、その角度から迷いなく語っている。江藤は『道草』や『明暗』などの作品に、小宮豊隆らが云うような崇高な「則天去私」の精神の反映が見つけられないとして、「則天去私」とはジェイン・オーステン風な世界への転換だと言ってみる。

 ところで江藤淳が挙げたfairnessあるいはpityという態度は少しく矛盾をはらんではいまいか。漱石神話に加担するつもりはないが、則天去私を具体化したと思しき一例、自分の子がめっかちになっても「ああ、そうか」と受け容れる態度はある意味fairnessであるかもしれないが、pityを欠いた非人間的態度である。

 そしてジェイン・オーステインとの関係で『明暗』を見て行くとするならば、お秀のお延へ仕掛けた大演説はそれこそ『高慢と偏見』と題して短編小説に出来そうでさえある。文字通りお秀の態度は高慢であり、小姑ならではの偏見が滲み出ている。

 さて『明暗』にfairnessあるいはpityがどのように散りばめられているかと言えば、私にはその心当たりがほとんどない。では高尚な小宮豊隆式「則天去私」があるかと言われればやはりそれもないように思われる。

 明確にあるのは決定論的考え方と、意思と自己決定への懐疑である。

 これまでも例えば『それから』の代助の告白など、ほとんど無意識から言葉が浮かび上がるようにして行われていたり、『道草』においても「世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない」と言った諦観が述べられるなど、いわゆる「自分の強い意志で世の中を変えていく」といった態度とは真逆のものが示されてきたことは確かだ。

 しかし『明暗』ほど明確に自分の意思を疑い、自分ではコントロールできない肉体の病や、偶然の意味が突き詰められるなどしたことはなかったように思われる。

 もし作品そのものの中に「則天去私」の意味を見出さないといけないのだとしたら、それは決定論的考え方と、意思と自己決定への懐疑が合わさったところにあるものなのではないかと考えている。

 ただしもう一つ押さえておきたいのは、漱石が和辻哲郎からのラブレターの返事の中に「道に入ろうとしている」と書いていたことである。漱石の十年間の作家生活は苛烈なものであったが、とくに修善寺の大患の後、十分に「死」と云うものを意識して以来、漱石は必死に書いていたと思う。『明暗』の執筆時においては、とくに漢詩で心のバランスを保ちながら、求道的に、つまり一種の修行のように書いていたように思える。勿論そこで自分というものがなくなるわけではないが、今更のようにその経過を眺めてみると、一番傍にいた小宮豊隆がその態度に恐れ入ったのは寧ろ当然すぎるほど当然のことではないかと思いもする。

 その創作態度にそのものは、それこそ自分の子がめっかちになっても「ああ、そうか」と云いかねない何か公平というよりは、無私なものではなかっただろうか。

 運命だから逆らいかねる。私も今そういう位置にいる。嘘かどうかは見ていればわかるだろう。

ここから先は

79字

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?