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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する196 案外つながっている
芳原
「その、船頭が御客を乗せて芳原へ行く所なんで」「大変な幕をやりましたな」と教師だけにちょっと首を傾ける。鼻から吹き出した日の出の煙りが耳を掠めて顔の横手へ廻る。「なあに、そんなに大変な事もないんです。登場の人物は御客と、船頭と、花魁と仲居と遣手と見番だけですから」と東風子は平気なものである。主人は花魁という名をきいてちょっと苦い顔をしたが、仲居、遣手、見番という術語について明瞭の智識がなかったと見えてまず質問を呈出した。「仲居というのは娼家の下婢にあたるものですかな」「まだよく研究はして見ませんが仲居は茶屋の下女で、遣手というのが女部屋の助役見たようなものだろうと思います」東風子はさっき、その人物が出て来るように仮色を使うと云った癖に遣手や仲居の性格をよく解しておらんらしい。
岩波はこの「芳原」に注解をつけて、
普通「吉原」と書く。
……とする。その通りであろうが、「芳原」の表記もさして珍しいものではなさそうだ。
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国立国会図書館デジタルライブラリー内では2900程度の使用例があり、さして明確な区別なく使われていた表記のようだ。
胃内廓清
「彼等は食後必ず入浴致候いたしそろ。入浴後一種の方法によりて浴前に嚥下せるものを悉く嘔吐し、胃内を掃除致し候そろ。胃内廓清の功を奏したる後のち又食卓に就き、飽く迄珍味を風好し、風好し了れば又湯に入りて之これを吐出致候。かくの如くすれば好物は貪り次第貪り候も毫も内臓の諸機関に障害を生ぜず、一挙両得とは此等の事を可申べきかと愚考致候……」
岩波はこの「胃内廓清」に注解をつけて、
「廓清」は悪いことを払い清めること。粛清に同じ。『後漢書』「陳蕃伝」に「天下を廓清す」とある。
……とする。まさにその通りで、「廓清」は主に社会的政治的な物事に関して用いられるようだ。ここは先ほど「芳原」との関連で無理に用いられたところであろうかと思ったが、『吾輩は猫である』が書かれたのは明治三十八年。廓清会が出来るのが明治四十四年。つまり夏目漱石はタイムトラベラーだとしておこう。
かくせいかい【廓清会】
1911 年(明治 44)の吉原全焼を機に,組織された廃娼運動の団体。江原素六・島田三郎・安部磯雄・矢島楫子らを中心とし,機関誌「廓清」を発行。
むつとして
「むっとして弁じましたる柳かな、かね」と迷亭はあいかわらず飄然たる事を云う。
岩波はこの「むつとして弁じましたる柳かな」に注解をつけて、
江戸中期の俳人、大島蓼太の句に、「むつとして戻れば庭に柳かな」がある。
……とする。
「むつとして」と柳の組み合わせは他にこんなものもある。
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どうやら「むつとして」はありふれた歌のお題というか枕というか、
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……として調べて行くと、
あれあれあれ?
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そうそう。やはり吉原がかかっているのかな……ってそこじゃなくて、嵐雪。
調べてみると子規も碧梧桐もこの「むつとして戻れば庭に柳かな」を大島蓼太の句として批評している。大島蓼太は雪中庵を継承し三世となり、『雪中庵嵐雪文集』などがある。「柳かな」は蕉風で良く用いられる……。もとはと言えばこの句であろう。
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ということで、ここは山根秋伴氏の勘違いということにしておこう。大島蓼太が雪中庵三世というところから、こんがらがったのであろうか。
大鷹源吾
「独逸人が大鷹源吾の蒔絵の印籠を見て、これを買いたいが売ってくれるだろうかと聞くんだそうだ。その時東風の返事が面白いじゃないか、日本人は清廉の君子ばかりだから到底とうてい駄目だと云ったんだとさ。その辺は大分景気がよかったが、それから独逸人の方では恰好な通弁を得たつもりでしきりに聞くそうだ」
岩波はこの「大鷹源吾」に注解をつけて、
大高源吾。寛文一ニ(一六七二)―元禄一六(一七〇三)年。名は忠雄。俳諧を榎本其角に学び、俳号を子葉という。四十七士の一人。
……とする。この榎本其角(宝井其角)との関係はフィクションであると言われている。
そしてこれらの大鷹源吾はみな同じで、大高源吾なのだろうか?
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[余談]
赤穂浪士の話にも嵐雪が出て來る。この辺り案外狭いところでつながっている。
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