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『彼岸過迄』を読む 23 松本恒三は貧乏

 そういえば『明暗』の小林は朝鮮に行くのでしょうか?

 このことは書かれていないので基本的には解りませんね。しかし書いてある部分から、妹の始末やらなんやらがあり、すんなり消えてしまうとも思えません。

 それから『門』の安井はなんで日本に戻ってきたのでしょうか。

 これも書かれていないので分かりません。

 しかし満州やら朝鮮やら樺太やらが漱石作品に表れるのはまさに「時代性」であり、高等教育を受けても教員くらいしか職がないのは、「時代性」ではなく、バブル期を例外にした普遍の真理かも知れませんね。

 そう考えてみると夏目漱石は凄いですね。大学は余を冷遇した、小説家になる、って宣言して博士号も拒否、今『こころ』のKは苗字だと勘違いした作家が食うために大学教授の席にありついいていることがみっともなく感じられます。

 いえ、夏目漱石作品を涜していないのならいいのです。ちゃんと読めて、ちゃんと教えられるのならいいのですが、その程度の国語力で人に物を教えることは危険だと思わないのかということです。

 その点松本恒三は潔いですね。あまり焦点が当たりませんが、本来の意味での高等遊民を体現している唯一の存在? のように見えます。代助はパンの為に働く人に堕ちそうですし、先生は自殺してしまいます。松本恒三は死にそうにありません。

 ところで『彼岸過迄』の中で松本恒三のキャラクターは最後まで変化させられますね。これも「ふり」と「落ち」の関係として捉えて整理してみたいと思います。

 まず松本恒三は四十恰好の男として読者に紹介されます。

 今日四時と五時の間に、三田方面から電車に乗って、小川町の停留所で下りる四十恰好の男がある。それは黒の中折に霜降の外套を着て、顔の面長い背の高い、瘠せぎすの紳士で、眉と眉の間に大きな黒子があるからその特徴を目標めじるしに、彼が電車を降りてから二時間以内の行動を探偵して報知しろというだけであった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こう言う外見なのだ、ということだけ伝えられます。それから松本恒三は若い女と西洋料理屋で食事をする男だと解ります。今は西洋料理よりもむしろ和食の方が高級なイメージがありますが、当時は西洋料理と言えばそこそこの値段がしたものと考えられます。蕎麦が400円とするとライスカレーが約1200円の時代です。

 この場面ではむしろ田川敬太郎が、

 それは宝亭と云って、敬太郎の元から知っている料理屋で、古くから大学へ出入りをする家であった。近頃普請をしてから新らしいペンキの色を半分電車通りに曝さらして、斜かけに立ち切られたような棟を南向に見せているのを、彼は通り掛りに時々注意した事がある。彼はその薄青いペンキの光る内側で、額に仕立てたミュンヘン麦酒の広告写真を仰ぎながら、肉刀と肉叉を凄まじく闘かわした数度の記憶さえ有っていた。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 ……などと比較的裕福な学生だったことに驚かされます。

 この宝亭、正しくは多賀羅亭のようで、

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 京橋の「清新軒」の分店のようです。

 この店には夏目漱石も何度か訪れており、日記にもそのことが記されています。

 まあ、田川敬太郎も松本恒三も少しは贅沢が出来る人間だということが解ります。

 それから読者が度肝を抜かれるのは何と言っても「高等遊民宣言」の場面ではないでしょうか。

余裕って君。――僕は昨日雨が降るから天気の好い日に来てくれって、あなたを断わったでしょう。その訳は今云う必要もないが、何しろそんなわがままな断わり方が世間にあると思いますか。田口だったらそう云う断り方はけっしてできない。田口が好んで人に会うのはなぜだと云って御覧。田口は世の中に求めるところのある人だからです。つまり僕のような高等遊民でないからです。いくら他の感情を害したって、困りゃしないという余裕がないからです」(夏目漱石『彼岸過迄』)

 できることならこんなことを言ってみたいものです。これで妻子があるから驚きです。最盛期には五人も子供がいたわけです。それなのに働かないで、ある人に頼まれて、書斎で日本の活花の歴史を調べていたりするわけです。活花の歴史を調べても金にはならんでしょう。その金にならないことのできるのが高等遊民であるという理屈なのでしょうが、就職のために探偵迄した田川敬太郎にとっては、「高等遊民宣言」は何とも理解しがたいものであったのではないでしょうか。

 この辺りで読者の頭の中には松本恒三が『こころ』の先生のように相続財産などを得て、優雅に暮らしているイメージができていたと思います。しかし漱石はそのイメージを須永市蔵の手紙で破壊します。

 そう云えば、遺伝だか何だか、叔父さんにも貧乏な割にはと云っては失礼ですが、どこかに贅沢なところがあるようですし、あんな内気な母にも、妙に陽気な事の好きな方面が昔から見えていました。ただ僕だけは、――こういうとまたあの問題を持ち出したなと早合点なさるかも知れませんが、僕はもうあの事について叔父さんの心配なさるほど屈托していないつもりですから安心して下さい。ただ僕だけはと断るのはけっして苦い意味で云うのではありません。僕はこの点において、叔父さんとも母とも生れつき違っていると申したいのです。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 そうなんですね。松本恒三は金持ちで贅沢なんじゃなくて、貧乏なのに贅沢なんです。甥に貧乏とか言われています。これが「ふり」と「落ち」ですね。じゃあ、「高等遊民宣言」はいいけれど、一体どうやって生活しているんだ、ともう一度振り出しに戻って考えさせるところが漱石の手練れです。「貧乏」の文字はここ一か所にしか出てきませんから、狙いすました一撃です。狙いすました一撃なんですが、案外気が付かないことなんじゃないかと書いてみました。

 気が付いてました? つまり?


[付記]

 気が付いていた人はいますか?

 あ、「貧乏人の子沢山」と思ってた人います?

 高等遊民は「家庭的」ってこのことかと。「家庭的」ってそういうことなのか、そっちを頑張ったんだな、と解っていなかった人 ↓ こんなところから近代文学2.0を始めてみませんか。










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