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川上未映子の『花瓶』のどこがこわいか?

 Where have all the flowers gone?

 そんな言葉が呑み込まれ、随分時間が経ってしまったのだと感じる。花はもうない。

 昨日、『あなたの鼻がもう少し高ければ』のトヨはブサイクによって世界を変容させないと書いた。書いたような気がする。なんだ「世界」って、大げさではないかと思われた方、多分川上未映子という人は『あなたの鼻がもう少し高ければ』においてSNSと面接という二種類の世界との関りを書いたのですよ。

 彼女の頭はでかい。世界がスコンとはいるのだ。

 この『花瓶』は『青かける青』の多義性を丁寧に拾うかのような、認知症の老婆の話だ。今は家政婦の名前が思い出せない。それにしてもまたwithoutされたかのように「むせかえるような女くささ」の漂う世界で、登場人物は二人の女性だけ。もう間もなく家政婦の仕事を辞める「彼女」と老婆の「わたし」。

 ねえ、どうして花瓶に花が入っていないの、とわたしは小さな声できく。
 彼女は新聞から顔をあげて、素敵な花がなかったからと肩をすくめる。飾りたくなるような花は、もうどこにもなかったのだと。


(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 花はもうどこにもなかったのだ、その言葉は世界で最も有名な反戦歌を思い出させる。六十年代でもあるまいに今更そんな歌を思い出すのはどうしてだろうと考えてみると、何週間か前、近所のアーケード街でインストゥルメンタルで流れていた曲が「花はどこへ行った?」だったからだ。

 川上未映子は Where have all the flowers gone? を知っているだろうか。いや、知ろうと知るまいとに関わらず、これはもう花瓶に飾るべき花のない世界で、『花瓶』とは遠い昔にあったものが失われ、全てが過去になった「わたし」が対峙している現在の世界の成り立ちそのものなのだ。

 また「世界」なんて書いて……。

 家政婦の彼女の話だと世界では悪いことが起きているようだけれど、でもそれは世界の話であってわたしの話ではなさそうだった。世界と関係なくわたしは死ぬし、世界の方もわたしとは関係なく死ぬのかもしれない。そういえば、世界の終わりという言葉はあるけれど、世界が老いるという言葉はある?

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 こうして世界と対峙する「わたし」は「まっすぐではない」過去の性交、三十九歳だった二月の終わりの「唇が赤い日」を思い出す。

 彼の体は、まだ世界のどこかにあるだろうか、どうだろうか。わたしの時代のあの日々は、どこかに残っているだろうか。

(川上未映子『春のこわいもの』新潮社 2022年)

 また『青かける青』を思い出させるようにこんな問いが投げかけられる。その答えは、こんな「こわい」ものにはならないだろうか。

 大丈夫、認知症が進めばね、また現れますよ、目の前に

 老婆の希望が遠い過去にしかないのなら、確かに花瓶に生けるべき花はもうどこかへ行ってしまって、花瓶はただの「鈍器のようなもの」にしかならない。まもなく「わたし」はあれとこれとの区別がつかなくなり、見舞いに来た息子を昔の浮気相手と間違えて抱き着くかもしれない。

 川上未映子の『花瓶』のどこがこわいか?

   素敵な花がもうないから怖い。それでも「わたし」が「わたし」として存在し「わたしの時代」の性交の思い出に浸りたいから怖い。もう「わたし」が「肉」ではないのに。

 花はどこへ行った?


 [余談]

 Where have all the flowers gone?

 この歌はウクライナ民謡を元にした反戦歌だそうだ。もしそういう狙いがあったとしたら深いな、と思うが、さすがにそれはないか。


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